チラシ・資料

2023年9月16日(土)前田朗 講演記録

    つくば市 バーク(BARK)スタジオ 軍拡NO!女たちの会茨城

軍隊のない国家を訪ねて―
軍隊は命を守らず自国民さえ殺す

             前田 朗

一 問題意識

二 平和概念の変容

三 非武装国家のリアリティ  ――軍隊のない国家27カ国を訪ねて

四 非暴力・非武装・非同盟・不服従

(*2023年9月16日の講演記録に加筆補正を施した。2023年12月30日、前田朗)

***********************************

一 問題意識

はじめに

こんにちは。前田です。 東京造形大学というところに30年余り在職しまして、いわゆる教養の「法学」「日本国憲法」の授業をしていましたが、2年前に定年退職しました。

作務衣を着ていますが、別に彫刻や陶芸をやっていたわけではありません。単に楽だからこういう格好をしています。

ときどき韓国の韓服(はんぶく)という服を着ていることもあります。また、アフガニスタンのシャルワール・カミーズという服を着ています。今回の講演会の案内チラシに、バーミヤンで写した私の写真が載っていたと思います。シャルワール・カミーズを着ています。

もう一つ、私の所属・肩書に「朝鮮大学校法律学科講師」と載せてあります。朝鮮大学校は東京の小平市にあります。在日朝鮮人が自分たちでつくった大学で、60年余りの歴史があります。教授は全て在日朝鮮人です。ただ、非常勤講師で授業している日本人が何人かいます。1999年に朝鮮大学校政治経済学部に法律学科という学科ができました。この学科は日本の法律を勉強する、日本で法律家になる、そのための学科ですので、日本人教員が非常勤講師として教えてきました。

私は1999年に頼まれて、創設時から授業をしていて、もう25年になります。発足当初からずっと教え続けている日本人は私しかいません。

法律学科は超ミニ学科です。朝鮮大学校自体が小さな大学校なんですが、法律学科は超ミニ学科です。1学年大体10人です。多い時は15人ぐらいで、今年の1年生は12人なんですが、少ない時は2人ということもありました。

25年ですので、まだ卒業生は200人に達していない、そういう状況です。その中から25人が弁護士になっています。日本で弁護士業を営んでいます。

日本の司法試験というのは、大学を卒業して、いわゆる法科大学院(ロースクール)へ行って、司法試験を受けて、合格すると研修を受けて、それから弁護士になるという形です。そこまでのプロセスで言うと、卒業してもさらにロースクールに2年です。

朝鮮大学校法律学科は2003年に初めて卒業生が出ました。ロースクールを修了する年代はまだ200人に達していません。そのうち25人が弁護士になっているのは、これはものすごく高い数字です。

私の母校の中央大学法学部は司法試験合格者が多いことで知られますが、そもそもマンモス大学で、学生数が膨大です。司法試験合格率は遥かに、ずっと低いです。朝鮮大学校はとても高いレベルです。

私が教えているからではありません。私は司法試験受験勉強と全く関係ないことを一所懸命やっています。1年間「ヘイトスピーチ」に関する授業をしたこともあります。日本人の私が朝鮮人の学生に、日本人によるヘイトスピーチに関する授業を1年間やっているのです。京都朝鮮学校襲撃事件とか新大久保のヘイトデモの話をしますので、私がヘイトスピーチばっかりやっているみたいな話で、学生はかなり辛いと思いますが、一所懸命勉強してくれています。

「在日朝鮮人の社会を代表して、在日朝鮮人同胞のために法律家になって頑張るんだ」ということで、目的意識を持ってしっかり勉強している学生たちです。弁護士が25人、そのほかに司法書士、行政書士の資格も取っています。公認会計士も2名います。日本の大学院を修了して、朝鮮大学校に戻って助教になった学者もいます。それ以外は、かなりの部分が、いわゆる同胞企業に勤めたり、在日朝鮮人の企業に勤めたり、在日朝鮮人の組織に勤めています。とても熱心な学生たちです。

そういう学生たちに25年間ずっと授業を続けているんですが、これは私だけが持っている「特権」なんですね。他の日本人はふつう、大学の中に入れないので、これを「在日前田特権」と呼んでいます。

 

アフガニスタンツアー(2023年3月)

 

写真をご覧いただきます。これは今年3月にドバイから――日本では「カブール」と言いますが、現地では「カーブル」と発音します――カーブルに着くところです。これから空港に降り立つところです。私は5回目のアフガニスタンになります。

次は町中の普通の通りの写真です。右上にビルが見えますが、十数年前に行った時にはこういう高層ビルは少なかったんですが、今、町中には高層ビルがかなり増えています。9.11の後、アフガン戦争になって、一旦、ターリバーンを駆逐して落ち着いたので、その後、アメリカやヨーロッパの資本が入って、カーブルに新しいビルができています。しかし、2年前にターリバーンが復権して、アメリカが追い出されました。

次は町中の通りです。何の変哲もない通りですが、この写真を選んだのは「TOYOTA」という文字があるからです。国際中古車市場から流れてアフガンに入っているもので、アフガンで見る車で一番多いのはTOYOTAです。

私が泊まったホテルの庭は3月で花がいっぱいでした。花の向こう側にある部屋に泊まっておりました。

こちらがお役所に貼ってあるポスターです。お役所というのは、ターリバーン政権のお役所で、ターリバーンが全て握っています。ここに貼ってあるポスターです。

ポスターに何が書いてあるかというと、「アメリカを追い出して自由になった」と書いてあるわけです。「自由」という言葉の意味が違うわけです。アメリカはもともと「アフガニスタンに自由をプレゼントする」という傲慢なことを言って、爆撃を繰り返して何万人という難民を生んだわけです。9.11の後のアフガン戦争です。

ターリバーンを駆逐して、一旦、秩序は維持したかもしれませんが、それは短期間でした。カルザイ以後の政権というのは「傀儡政権」ですから、民衆の支持が全く得られません。とんでもない腐敗政権で、国際支援が横流しされて、一部の軍閥たちがポケットに入れました。腐敗だらけになってしまって、とうとう潰れたわけです。世界最強の米軍が世界で最も弱いターリバーンの軍隊に簡単に負けてしまう。これは民衆の支持が一切ないからです。

民衆は、ターリバーンも嫌だけど傀儡政権はもっと嫌だ、という選択をしたわけです。その選択をどう評価するかはなかなか難しいところで、私も評価には困っているんですが、でもそれが現実です。

もちろん、今、ターリバーン政権が支持されているわけではありません。ひどい圧政を敷いていますので、民衆にとってはどっちもひどい状態です。

次の写真は先ほどのホテルの部屋から見た風景です。向こう側に緑がいっぱいあるのは、シャリナウ公園という、カーブルの街の真ん中にある公園です。日比谷公園みたいなところと思っていただければ良いかと思います。十数年前にカーブルで会った女性は「ここはソ連戦争前、花が咲き誇る美しい公園でした」と言っていました。ソ連がアフガニスタン侵略を始めたのは1979年の事でした。

次はアフガニスタン女性革命協会(RAWA)という団体が密かにやっている女性のミシン教室です。小さなミシン教室だけだと非合法ではないので一応できているのですが、RAWAは、通常の勉強をする学校教育を秘密裏にやっています。秘密学級です。違法なので、ターリバーンに見つかると潰されます。非合法でやっています。

ミシン教室では古いタイプのミシンを使っています。こちらは女性にとって必要ですのでターリバーンも禁止まではしてないんですが、学校と名乗ることはできません。

秘密学級は、カーブル、ナンガルハル、そしてバーミヤンで訪問してきたんですが、その写真は今日はご覧いただけません。秘密学級の写真をうかつに公開すると、東京のアフガニスタン大使館員の目に入るかもしれません。大使館員はターリバーンじゃないんですが、目を光らせているターリバーンの人物も東京に来るでしょうから、「どこの秘密学級」と分かってしまうと何が起きるか分からない。RAWAの女性たちはこれまでも襲撃されたり殺されたりしています。そういう団体ですので、今日はその写真は割愛しています。ご覧いただけるのは合法的なミシン教室の写真です。

もう一枚、これは町中の光景です。町中で、左側はジャガイモとパンの料理をつくっている屋台です。町中の路上に出ている果物店もあります。もちろん通常の店舗もありますが、路上のお店ということになります。

そして、カーブルからバーミヤンに向かう途中、山の中のバーミヤンハイウェーで写したものです。

私が着ている服はシャルワール・カミーズという、アフガニスタン、パキスタンの男性の服装です。女性も、このチョッキとは違う形のロングドレスで、やはりシャルワール・カミーズという服です。この春も2着ほどオーダーメイドで誂えてきたので、取っかえ引っかえ着ています。

背景は3000メートル級の山々です。私が立っている場所で2500メートルぐらいのところかと思います。こんな高いところの、道路だけはきれいになっています。カーブルとその周辺の道路は、2000年代後半に日本政府の援助でかなり舗装されたそうです。日本政府はそういうところに力を入れて、アフガン復興に協力したのは事実です。

ただ、残念ながら、日本政府の努力がアフガン復興につながったかというと、ほとんどつながってないと言わざるを得ないだろうと思います。腐敗させたことの方が重大かつ深刻です。

憲法学者はなぜ戦場に行くのか?――RAWAとは

なぜアフガニスタンに行ったかですが、1970年代に「アフガニスタン女性革命協会」という、女性の権利を主張する団体ができました。「RAWA(ラワ)」と略称しています。設立したのはミーナという当時カーブル大学の二十歳の学生で、のちに専従の活動家になりました。1987年に暗殺されてしまって、残念ながら亡くなった女性です。それを引き継いで、RAWAは女性の人権実現をめざして活動を続けています。

9.11前後に、アフガンの女性が公開処刑される銃殺シーンがオンラインで世界中に流れました。ザルミーナという女性が夫以外の男性と関係したという理由で公開銃殺されました。公開処刑シーンを秘密裏に撮影して公開し、世界に訴えたのがRAWAです。

アメリカが、アフガンの女性はひどく抑圧されているから解放するために戦争をやるんだという、訳の分からないことを言って戦争を始めたわけです。ターリバーン政権を潰したのはいいけれども、女性の状況はもっとひどくなって、戦死した女性、子どもを失った女性、難民になった女性が多数いるわけです。

RAWAと私は2000年代前半からずっとつき合い続けています。イタリアとかオーストラリアの女性たちも支援活動を頑張ってやっているんですが、日本からは男性の私がRAWAとずっとつき合い続けてきました。

アメリカのアフガン戦争の時に、RAWAに「イスラマバードに行くので会いたい。アメリカの戦争に反対する平和運動家として会いたい」とEメールを送って、イスラマバードに行ったんですが、1週間全く連絡がないんです。

何しろ外国人の男がいきなりRAWAにメールを送ったわけですから、RAWAとしても、うかつに会うわけにいかない。私は1週間、イスラマバード郊外やペシャワールにあったアフガニスタン難民キャンプを回って、ずっと調査してました。いよいよ日本に帰ってくる日、朝、RAWAから電話があって、ホテルの前にいるということで、ようやく会えました。実はRAWAメンバーが1週間、私を見張っていたそうです。前田とは何者か。

私の名前を日本語で検索すればいっぱい出てきますけど、英語で「MAEDA AKIRA」で検索しても出てこないので、正体が分からないわけです。いったい何者か分からないので、1週間見張っていたそうです。それで、ようやく「会っても大丈夫だ」と思って、会ってくれたんです。何しろ非合法組織です。過激なイスラム主義勢力に襲撃されてきましたので、外国人男性と会うのはとてもリスクが大きいわけです。

それ以来ずっとつき合い続けていますが、2004年、日本で「RAWAと連帯する会」というグループをつくりました。長いこと私が一人で共同代表と称していたんですが、そこに憲法学者の清末愛砂さん(室蘭工業大学大学院教授)が加わってくれました。清末さんと私が共同代表です。

次の写真は、カーブルのインディラ・ガンジー病院という子ども病院です。本当に乳幼児がいっぱいいました。毎日のように何人も死んでいる大変な病院です。その病院を見学したときの写真で、私の隣にいるのが清末愛砂さんです。今回、3月に一緒に行ってきました。

一番恰幅の良い男性が大臣の広報担当官です。日本的に言うと厚生労働省の広報官です。そのお隣が病院の院長です。

RAWAはアフガニスタンの最初の女性団体で、一貫して非合法団体です。どの政府からも認められない。いつも弾圧されている。たまに襲撃される。創立者のミーナは殺された。そういうグループですが、諦めずにずっと頑張り続けています。時には難民になりながら、パキスタンのペシャワールやラワルピンディで、女性の運動、女性の教育、医療を担ってきました。

私たちは「RAWAと連帯する会」という名前で、RAWAに協力をするということで、今、ナンガルハル州に私たちの支援で学校を1つ造っています。日本の皆さんからカンパをいただいて学校を造ったんですが、そこに今回、初めて行ってきました。秘密学校なので、地名も学校の名前も言えません。日本からの支援ということ自体が秘密なので言えないんですが、ナンガルハル州にあります。

ナンガルハルが日本で話題になるのは、中村哲先生の記念公園があります。中村哲さんが井戸を掘り、そして用水路を造って、砂漠地帯を緑に変えた。砂漠地域なのに一部、緑の畑が広がっています。その真ん中に記念公園があって、中村さんは殺されてしまいましたので、中村哲さんの大きな記念碑が立てられています。

ペシャワール会の方たちはアフガンに入れます。それ以外の日本人というのはまずビザが取れないのでなかなか入れないんですが、この3月、私たちはようやく行ってきました。

中村哲記念公園に行くと、現地の人たちが「日本人か、1年ぶりだ」と大歓迎されました。中村哲さんとペシャワール会のおかげで、日本人であるというだけで現地ではものすごく歓迎されます。

話を清末愛砂さんに戻すと、ふだんもよくシャルワール・カミーズで歩いていますが、彼女が日本で最初にニュースになったのは、イスラエルで銃撃された時です。イギリスに留学して、その際イスラエルに行って「イスラエル・パレスチナ問題」を調査研究しました。パレスチナ民衆の解放闘争のところに行って、イスラエル軍に銃撃されて負傷した日本人。それが清末さんです。

ですから、彼女はイスラエルとアフガニスタンという2つの戦場に出かけていく憲法学者です。アフガンは今回で2回目ということです。私もアフガニスタンに5回行きましたけれども、「憲法学者はなぜ戦場に行くのか?」をお考え願います。他の多くの憲法学者から見たら「そんなのお前たちだけだ」という話で、戦場に行くのは清末さんと私しかいないんですが、何でわざわざ戦場に行くのか。

2003年にアフガニスタンからパキスタンに帰ろうとして、国境を通れなくてジャララバードに戻ったことがあります。イスラマバードでは「前田が帰ってくるはずが、国境で消えた」という話になりました。私はジャララバードに戻ってパキスタン領事館に行っていたのですが、その間、「前田行方不明の捜索願いをいつ出すか」と検討しているところに、3日目、私が国境を越えて無事帰還しました。一日遅れていたら捜索願いが出て、国際ニュースになっていたところです。

この時、ジャララバードでガイドと運転手と車を頼んで、砂漠を越えたのですが、砂漠の真ん中で車を止められて「もっとお金を出せ」と脅されて、有り金全部払ってきました。

マザリシャリフに行った時は、ブルーモスクが素晴らしい美しさで感動しましたが、ヒンドゥークシ山脈を超えるサロン・トンネルが大雪崩のため通行できなくなって、帰れなくなったこともあります。アフガニスタンではこんな話ばかりです。

 

憲法学者はなぜ戦場に?

 

もちろん、RAWAとの連帯のために必要があって行くんですが、それだけではありません。初めて行った時、カーブル市内や郊外をあちこち回りましたけれども、どこに地雷があるか分からない。気がついたら地雷源の中だった。後ろから「動くなー」と叫び声が上がります。大変な状況になって泣きましたが、幸い無事でした。

それでもアフガンに行く。何で行くのか。やっぱり戦争のリアリティが我々には分からないので、行くのです。

私も戦後生まれですので、戦争のリアリティが分からないわけです。しかし、文字通り戦争のリアリティが分からない人が、平和運動に対して「お花畑だ」と言うんです。全く逆なんです。自衛隊をつくって、拡充して、日本の国民を守るとか、平和を守るなどと言う。それこそがお花畑なんです。荒唐無稽です。全く戦争のリアルを知らない。そういう人たちが平気で言うんです。「積極的平和主義」と言ってみたり「戦う覚悟が必要」と言ってみたり。戦わない人たちがそういうことを平気で言うことを考えたい、というのが1つです。

だからと言って、戦場に行っていたら危なくてしようがないので、私もそうそう行きませんけれども、いざ必要な時にそこに行ってみる訳です。

もう一つ、アフガニスタンは憲法がない国でした。今日は「軍隊のない国家」の話なんですが、こちらは「憲法のない国家」です。アフガニスタンは歴代で幾つもの憲法がありましたけれど、私が初めて行った時には憲法がありませんでした。その後、憲法ができました。カルザイ政権の下でできましたけれど、その憲法もほごになって、なくなっているという状況です。

現在、1964年の憲法の一部が適用されるという話になっていますが、ターリバーンの支配下ではシャリーア法(イスラムの法原理)が優先しています。イスラムのシャリーア法で政治をやると言っているわけです。憲法のない国に行ったのもアフガンが初めてでした。

カーブルの郊外のベマルと言う地域で、アメリカの爆撃によって殺された犠牲者の調査に行った時、べマルの丘の上からカーブルの町を見下ろして、なぜかボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」を口ずさみました。

How many times must the cannonballs fly

Before they’re forever banned?

その時、不意に「そういえば、アフガニスタンには憲法がない」と気づきました。「果たして日本に憲法があるのか」という逆の問いを立ててみるという、よい経験になりました。

このようなことを言うと、憲法学者は「お前、何言ってるんだ」と言うでしょう。日本国憲法が確かにあります。しかし、これは深刻に考えるべきテーマなんです。日本には果たして憲法があるのか。憲法があると言えるのか。憲法政治が行われているのか。沖縄の米軍基地は何なのか。真剣に問い直さないといけない問題に気づくことができる、ということがあります。

 

現代世界の戦争と平和

 

もう一つの問題意識として、ロシアによるウクライナ戦争がもう1年半、ずっと大変なことになっています。ウクライナも大変ですが、そのことが世界中あちこちに影響しています。フィンランド、スウェーデンがNATOに加盟する問題もそうですし、ウクライナ戦争のあおりでロシアのアメリカ戦略が変わったとか、いろんな問題がありますが、極東でも状況が変わっている。

日本との直接の関係で言うと「中国脅威論」、あるいは朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)について「朝鮮脅威論」が大々的に語られています。

私は朝鮮にも何度も行っておりまして、アフガニスタンと朝鮮の両方にこれだけ行っている人間は、多分他にいないだろうと思いますが、今日は朝鮮の話はしません。

日本でどんな話になっているかというと、「敵基地攻撃論」であったり、あるいは岸田政権の「安保3文書」というもので、昨年、国会に諮らず、中身もほとんど議論されず、勝手に決めた。「閣議で決めるんだ、それでいいんだ」ということになってしまったものです。

少なくとも20世紀まで、日本政府、自民党政権は憲法9条をないがしろにしているけれども、自衛隊の強化の際に、何か新しいことを決める時には事前に発表をし、国会に諮り、審議をして、ともかく強行採決してでも通す。少なくとも、形式的にではあれ審議、説明というのはやっていたんです。

それをしなくなったのは、最初の経緯はやはり小泉純一郎政権のイラク自衛隊派遣の強行でした。とりわけひどかったのが安倍晋三政権で、「国会に出す必要はない。国会を開く必要もない。閣議で決める。それでいいんだ」という路線がどんどん進行してきました。そして菅義偉政権は重要事項を公表もしない。学術会議任命拒否問題を思い起こしていただくと典型的ですが、「証拠を出せ」とか「文書を出せ」と言われても出さない、ということが続いています。

そして今回、岸田政権は「安保3文書」――これまでにない大きな変化であるにもかかわらず、一切、国会審議などしないという形でつくられてきています。しかも、それに対する批判が極めて弱くなった。

2015年の「集団的自衛権」の法制化の時には、それなりの批判があり、国会前闘争もやりました。参加された方もいらっしゃるんじゃないかと思いますが、あれが最後の闘いだったかのようになってしまって、今ではほとんど反対運動がない。もちろんやっている人は一所懸命やっているんですが、規模で言うと本当に何分の1にも達していない。

何が起きているかというと、ロシア・ウクライナ戦争のあおりで、「ロシアの一方的な侵略なんだから、ウクライナ軍が戦うのを支援しなければいけない。ウクライナ人があんな大変なことになって頑張っているのに見捨てるのか」という議論が、平和運動の中に広がったのです。

「憲法9条擁護」と言ってきた人たちが「ウクライナを支援しろ」と言っている。軍事支援のことを言っているんです。「武器輸出反対」と言ってきた人たちが「ウクライナに武器を送れ」と言っている。もう岸田首相が大喜びで、「はい、平和運動も言ってますね」という話ですから、もう軍事化への反対運動が全く弱まっている。

「9条擁護and/orウクライナ支援」と書きました。これまで「9条擁護、平和主義である、戦争反対である」と言ってきた人たちが「ウクライナに軍事支援をせよ」と語る。「じゃ9条擁護はもうやめたのか」と言うと、「そうじゃない。私は今でも9条擁護だ」とおっしゃる。「9条擁護だ、平和主義だ、だからウクライナに軍事支援だ。ここに矛盾はない」と言っている平和主義者が、日本にたくさんいるんです。いったいどういう思考様式なのか、およそ理解できません。どこが平和運動なのでしょうか。どこが護憲運動なのでしょうか。

これは一体どういう事態なのか、考えないといけない。「もう9条はやめた。ウクライナに軍事支援だ」と言うなら、少なくとも矛盾はない。ところが「9条がいいんだ」と言いながら、ウクライナ軍事支援を語る人たちが増えてきた。こういう問題をやっぱり考えないといけないという問題意識が一つです。

 

二 平和概念の変容

 

そこで改めて考えると、「平和とは何なのか」という意識が随分と揺れ動いて、変わってきている。

「平和概念の変容」――これは非常に大きな、近代の歴史全体を通じての話になります。遡ると、平和というのは、近代国民国家の国際法体系がつくられてきたという形になります。350年ほどの、現代につながる国際法のシステムの中で、平和がどういうふうに語られてきたか。

もともと「正戦論(Just War)」という理論が使われていました。これは一部で誤解されるんですが、イスラムにおけるジハード(聖戦)とは全く関係ありません。ジハードは、聖書の定義。キリスト教で言う聖書、イスラム教で言う聖典。その聖書の聖が「ジハード」です。

ジハードはもともと戦争という意味ではありません。「イスラムを広めよう」というのがジハードですから、全く違う意味なんです。ここで「正戦論」というのはJust Warです。19世紀以前の国際法の中で語られていた「国家は正しい戦争しか、してはいけない」という理屈です。

国家は、いつでも戦争できるわけではない。正しい戦争しか、してはいけない。正しい戦争とは何か。それは自衛戦争であって、ほかに選択の余地がなくて、そして国家の元首が命令して行うものである。その下で手続的には宣戦布告から始まり、一定のルールを守って行う、これが正しい戦争である。

つまり、権限を持った人間が適正な手続で行う、これが正しい戦争であるということになります。

ところが、この「正戦論」というのはヨーロッパ諸国の間でしか通用しない。つまり、イギリス対フランスとか、イギリス対オランダが、お互いに「Just Warであるかどうか」をチェックするという理屈なんです。植民地には適用しないんです。イギリスが世界中を植民地にする時に正戦論なんか使いません。オランダもスペインも、そんなものを使わないです。「ヨーロッパの文明国同士の間で正戦論を使いましょう。それ以外は野蛮な国なんだから正戦論は必要ない」という理屈なんですね。自分たちが文明で、ヨーロッパ以外は野蛮であると決めつける。そして植民地戦争を進めるのですから、ヨーロッパこそ野蛮なのですが。

世界中を制覇していきますから、その中でどんどん戦争状態になっていく。そうすると何が起きるか。例えば20世紀最後の独立国家・東ティモールがあります。インドネシアの東のティモール島。ここは東半分が東ティモールで、今、独立国家です。西ティモールはインドネシア領です。なぜ分かれたかというと、かつてティモール島でオランダとポルトガルが戦って、半分に山分けをしたわけです。そして東ティモール地域が400年間、ポルトガルの植民地だったわけです。

オランダの植民地とポルトガルの植民地、それが400年続いたため、ティモール島の一つの民族が別の民族であるかのようになってきた。言葉も宗教も文化も変容してきました。このために東ティモールが独立国家になりました。

この時にオランダとポルトガルがティモールで戦争をやる。正戦論だとどうなるか。できないんです。

場所はアジアのインドネシアです。ポルトガル軍とオランダ軍が戦うと言っても、オランダは王国ですから国王の勅許が必要です。そうすると、インドネシアからインド洋を経て喜望峰を回って大西洋を経てオランダまで帰って、「国王陛下、これこれこういうことになっています。ポルトガルと戦争します。よろしいですか」。許可をもらわないといけないんです。ポルトガルもそうです。そんなこと、できませんよね。

つまり、ヨーロッパの文明国同士の戦争だから、「Just War」と言っても、それは地理的にヨーロッパの中だから通じるわけです。植民地に出てしまえば、そんなこと言っている暇ないわけです。先に取ったほうが勝ちになりますから。

そういう理屈になるので、正戦論ではなく「無差別戦争観」、これが19世紀ヨーロッパの支配的な考え方になります。

無差別戦争観というのは、無差別にやっていいという意味ではありません。「戦争には違いがない」という意味です。つまり「Just War」と「Unjust War」というのはない。正しいか正しくないかは問題ではない。戦争は戦争である。これが無差別戦争観になります。

無差別戦争観の結果として、第一次世界大戦が戦われることになりました。とんでもない被害が起きます。このためにヨーロッパ諸国は、無差別戦争観ではヨーロッパ社会自体が崩壊する、これでは困るということで、不戦条約をつくることになります。

「戦争放棄条約」が要請されます。「ケロッグ・ブリアン条約」とも言うんですが、これが不戦条約です。自衛の戦争以外の戦争はしない、放棄する、という戦争放棄の条約、これが1928年に国際連盟でつくられることになります。

それを支えたのはレヴィンソンというアメリカの弁護士の思想ですが、これは遡ると、イマヌエル・カントという哲学者、ドイツのカントにさかのぼります。カントの『恒久平和論』というのは岩波文庫で翻訳が読めます。大変有名な著書ですが、今から二百数十年前に平和を論じました。平和の実現のためには集団安全保障体制が必要だということをカントは既に言っていたわけです。それが現代の国際連合に相当するということになります。

ここで戦争を放棄する、あるいは合理的に否定するという理屈が出てきた。国連憲章には、一定の条件を満たさない限り、各国、主権国家は戦争しない。むしろ戦争宣言を一定の範囲だけ国連安保理事会に委ねるという形になります。

もちろん侵略攻勢を受けたときには自衛戦争をするけれども、速やかに国連に報告をするという体制になっています。これが「戦争のない状態」としての平和概念なんです。

ここで問題になるのは、近代国民国家が正戦論や無差別戦争観を経て、現在の不戦条約体制、そして国連憲章体制にようやくたどり着いて、戦争はよくないから制限しますというところまでは来た。そこまでは来たけれども極めて不十分というのが、現在の国際的な状況なんですね。

それを踏まえて20世紀の平和学の到達点が、ガルトゥングの平和学です。これはノルウェーの平和学者で、ヨハン・ガルトゥングというんですが、パートナーが日本人なので、よく日本にいらっしゃる、ハワイ大学の名誉教授です。

ガルトゥングがこういう言い方をしたんですね。戦争がなかったら平和なのか、そんなことはないだろう。素朴に考えてもそうです。平和学の理論的に考えてもそうであるべきだ。きちんと理論的に見直す必要があるということで、30年以上前ぐらいにガルトゥング理論がつくられるんですが、「構造的暴力」という概念にたどり着きます。

戦争がなくても、例えば軍事基地の周辺でいっぱい被害が起きている。そこは平和じゃないだろう。戦争がなくても、あるいは飢餓になっている。あるいは軍事独裁政権でひどいことになっている。平和とは言えないという話になります。

そうすると、問題は暴力そのものにあるということで、ガルトゥングは「直接的暴力」「間接的暴力」「構造的暴力」という言い方をします。

軍隊が攻撃するのは直接的暴力です。しかし、攻撃しなくても抑圧的な状況をつくって抑えつける、様々な間接的暴力があります。

さらに、やろうと思っていなくても現にそこに軍隊がいれば、やっぱり影響力があるわけですね。軍隊の脅威――現代の国際関係論で言うと、きれいな言葉で「抑止力」という言い方ですが、抑止力というのはまさに構造的暴力なんです。

抑止力の出発点は、相手よりも少し強い軍隊を持っていれば大丈夫ということです。しかし、お互いに少しずつ強くと言っていくと、どんどん軍拡競争になっていく。それは火を見るよりも明らかなんです。抑止力は構造的暴力になるのです。

その議論を20世紀はずっとやっていました。これは当然優れた理論で、私たちも今でも使うんですが、ただ振り返ってみると「戦争のない状態」や「構造的暴力のない状態」というのは、定義になってないんです。「平和とは何か」と言うときに「戦争のない状態」と答えるのは、これは定義とはいえない。だったら「戦争とは何か」=「平和のない状態」になってしまうわけです。「果物とは何か」に「野菜でないもの」と言っても、これは定義になってない。構造的暴力のない状態を「平和」と言う。これも実は定義にはなってない。

 

権利としての平和

 

定義するためにどうするのか。21世紀の平和学はいろいろやっていますが、私が使っているのは「権利としての平和」という概念です。平和というのは「状態」だけではなくて、私たちの権利だという形で、権利の中身を豊かにしないといけない。そういう発想で権利概念を考えています。

その根拠になるのは、もちろん日本国憲法前文です。前文に「全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生きる権利を有する」と書いてあるわけです。どういう意図で書いたかという詳しいことはなかなか分かってないこともありますけれども、ともあれ、そこに「平和的生存権(Right to live in peace)」という言葉が書き込まれて、もう70数年になっています。

「平和的生存権」は、裁判でも3つ認めた判決があります。まず長沼訴訟の札幌地裁判決。1973年9月7日に、札幌地裁で「自衛隊は憲法違反だ。平和的生存権に反する」という判決が出ています。私は当時、札幌の高校生でした。それ以来ずっとこういうテーマを追いかけているんですが、平和的生存権をやはり平和概念に使うべきだと考えています。

同じように、2005年のブルンジ憲法に「平和的生存権」という言葉が書かれています。少し違いがあるのは、日本国憲法では「全世界の国民が」と書いてあります。「日本国民が」とは書いてない。日本国憲法なのに、勝手に「全世界の国民が」と書いている。おかしいんですが、非常に優れた発想で書いたわけです。

書いたからにはそれを実現しないといけない。それが日本国民の使命なんですね。世界から頼まれたわけでもないのに、勝手に「世界中の皆さんは平和的生存権があるんです」と日本国民が言ったわけですから、日本国民としてそれを実現するために努力しないといけない。

ブルンジ憲法は違います。「ブルンジ国民は平和的生存権を持っている」と書いてあります。これは正しい憲法です。普通の憲法はそうじゃないといけないわけです。日本国憲法は余計なおせっかいをしていますけれども、せっかくおせっかいしたのですから、おせっかいを続けないといけない責任があります。

似た概念で「平和への権利」というのがあります。「Right to peace」という言葉ですが、ボリビア憲法やカメルーン憲法やケニア憲法など幾つかにあります。そして2016年に国連総会で「平和への権利宣言」が採択されました。

これは2003年から本格化したイラク戦争の反対運動の中で、スペインの平和運動が声を上げて、平和への権利の国連宣言にしようということで運動を始めました。

スペイン、フランス、スイス、ノルウェー、日本が一緒に組んでやりました。日本は最初は私一人だけでしたが、笹本潤という東京の弁護士が一所懸命頑張りました。平和への権利国際キャンペーン日本委員会を立ち上げて、国連人権理事会でも日本国内でも取り組みました。国連ではキューバ政府とコスタリカ政府も巻き込んで、最後はコスタリカ政府が「よし、やる!」ということで担当して、国連総会に提案をして、国連宣言をつくりました。私も生まれて初めて国連宣言をつくったので、とてもいい経験になりました。

ただ、つくるにはつくったけれども、残念ながら現実の世界にこの宣言は生きていないので、せっかくつくった宣言をどう生かしていくのかということを考えないといけません。

 

常備軍の神話

 

ここまでが平和概念の変遷です。「状態」ではなくて「権利」として考えていく。ここから平和的生存権の中身を豊かにしていかないといけない。それが私たちの課題だということがあるんですが、その前提として、私たちがまだ逃れていないのが「常備軍の神話」です。

国家には軍隊がつきものだ、国家が軍隊を持っているのが当たり前だ、という発想が非常に強いんです。それは逆のパターンにもなるわけで、憲法9条は素晴らしい、世界で初めて軍隊を廃止した、日本は特別な国で、憲法9条は人類の宝だとおっしゃる。これだと憲法9条だけが軍隊廃止で、他は軍隊廃止にならないことが良いことになってしまいかねません。

憲法9条が素晴らしいとなると、そうなりかねないんですね。もちろんそんなことを思っている人はいないけれども、言葉の上ではそうなるわけです。これが今日、私がお話ししようと思っている最大のポイントです。

憲法9条を世界に広める運動を私たちがどれだけやってきたか。憲法9条は世界の国々に影響を与えてきたか。憲法9条は国連安保理に影響を与えてきたか。そのために私たちは何をしてきたか。残念ながらそこができてない。

これが今日のメインテーマです。軍隊とか軍事同盟が当たり前だと考える発想そのものを問い直さないといけない。

もちろん憲法9条は非常に重要な条文で、世界に向かって宣伝しないといけないし、国内で守らないといけません。でも憲法9条は言われているほど特殊でもないし、初めてでもないというところがあるので、少し違いますよということを考えていただきたいのです。

常備軍の神話を乗り越えないと憲法9条を生かす闘いができませんので、そこを頭の片隅に入れていただきたいという話です。

というのも、軍隊、常備軍、国民軍というのは一体何なのかという、その議論自体がちゃんとないんです。軍隊がないことになっている日本では、軍隊についてのリアルな思考が閉ざされています。軍国オタクの妄想で成り立っている。そこをもう一度問い直さないといけない。その時に見えていないこと――軍隊が強ければ国民を守れる。軍隊が守るんだという発想ですが、先ほど私は「それこそがお花畑だ」と言いましたけど、このことをちゃんと考えるべきです。

もちろん歴史的に国民軍が国民を守ってきたこともあるでしょう。例えば最初の国民軍である、フランス革命でつくられたフランス国民軍です。自由・平等・博愛の名の下に、内乱状態になりますから人は死んでますけれども、一応つくった後に、フランス国民軍はフランス国家とフランス国民を守るのだという体制はつくられたように思います。「ラ・マルセイエーズ」というのは革命軍の歌ですから、そういう国ももちろんあります。

しかし、冷静に考えていただければ、国民軍、近代国家の軍隊はまず誰を殺したか。それは火を見るより明らかなんですね

いろいろ挙げました。兵士の使い捨て。自衛隊の自殺者はどれだけ多いですか。自衛隊の中でパワハラ、セクハラで一体どれだけの人々が被害を被っていますか。これ一つだけで十分な証拠になると思うんですが、それ以前に、かつて大日本帝国の軍隊には特攻隊というとんでもない歴史があるわけで、自国民を無意味に死なせる、そういう戦法を取りました。若者を犬死させて、それを靖国神社に祭って英雄視する異常さです。人間性そのものが崩壊しています。

あるいは、まともな食料も兵器も持たずに戦地に送り出す。そういうことが中国大陸でも行われましたし、東南アジアでも行われました。太平洋の島々に残された兵士も次々と飢え死にしました。日本の兵士約300万が戦死しましたが、160万人が飢え死にですから、戦闘で亡くなったわけではないんです。飢え死にです。それを「名誉の戦死だ」「英霊だ」と持ち上げる。悲惨な間違いをどう考えるのか。

それは何も日本だけではありません。いわゆる湾岸戦争でもそうでしたし、2002年からのアフガン戦争でも、2003年からのイラク戦争でも、劣化ウラン弾が使われて、まず被曝したのは米軍兵士です。「湾岸戦争症候群」と言って、それ以前の1990年代のイラク戦争の時から同じことが起きて、十分わかっていたのに、予防措置は取られませんでした。もちろん現地の人たちが被曝して、アフガン、イラクは大変なことになりました。イラクでは、いわゆる「奇形児」とされる子どもたちが大量に生まれて、死んでいきました。

こういう形で、軍隊というのは自国民を守る発想をそもそも持っていません。軍隊の編成そのものに、自国民が死んでも構わない、そういうふうにつくられているのです。国家が生き延びるためには軍隊が生き延びなければならない。ならば国民を犠牲にして軍隊が生き延びるのが当たり前だからです。

さらに沖縄戦の教訓です。これはご説明するまでもないと思います。沖縄戦は軍隊が国民を守らないことの証明です。

私の叔父の一人が沖縄の「平和の礎」に名前が刻まれています。私は札幌出身なんですが、北海道へ行ったら、そういう遺族がたくさんいます。沖縄戦に一番投入されたのは北海道の軍隊だからです。私の叔父は二等兵、末端の兵士として、現地で6月23日に亡くなったことになっています。本当はいつどこでどうやって死んだのか分かりませんし、骨もありません。名前だけは「平和の礎」に刻まれています。

私の叔父が沖縄の人たちに何をしたのか、それは全く分かりません。何も分からない。何もしなかったであろうことを願うしかない訳です。

次にドミニカを挙げておきました。後でも触れるように、軍隊を廃止した国なんですが、廃止した理由は簡単です。クーデターで軍隊が国民を殺した、だから廃止しました。

それからコスタリカは内戦による自国民殺害です。1947~48年にコスタリカの内戦で国民が死んでいます。その後、1949年の「コスタリカ憲法」で軍隊を廃止しました。そういう国があります。

どこも、軍隊が国民を死なせているのです。

次に敵軍を呼び込んでの「自国民殺害」です。もう戦況がどうにもならない、早く戦争を止めればよいものを、ずるずる引き延ばして、東京大空襲、横浜空襲、大阪空襲、そして広島、長崎となったわけです。時の昭和天皇裕仁が「一回勝ってからでないとやめられない。もう一戦果上げてからだ」と言っている間に、8月15日を迎えたわけです。死なずに済む人間を大量に死なせて、ようやく終戦になる。裕仁の延命策で、広島・長崎の犠牲者が数十万人です。

それから「ジェノサイド事件に見る自国民殺害」です。例えば1890年代の東学農民革命に対する弾圧で数万人殺しました。その時は外国人でした。1919年の3.1独立運動を弾圧して、万単位で朝鮮人を殺しています。1910年に韓国を併合したので大日本帝国の臣民になっていました。でも日本の警察と軍隊は、日本国籍とされた朝鮮人を殺しても構わない人間として扱って、万単位で殺します。その4年後には関東大震災大虐殺です。残念ながら日本の一般民衆も大変な虐殺事件を引き起こしました。

これを私は「ジェノサイド」と考え、「関東大震災ジェノサイド」「コリアン・ジェノサイド」と呼んでいます。関東大震災朝鮮人虐殺は、国際法に照らしてみればジェノサイドです。そうであれば100年前のジェノサイドというのは、第一次大戦時の1915年の「アルメニア・ジェノサイド」、あるいは1905年に起きた、ナミビアでドイツ軍がヘレロ人を殺した「ヘレロ・ジェノサイド」。それと同じスケールで、この100年の間に世界的に起きているジェノサイド、これを国際法的に考える必要があります。そのジェノサイドに民衆だけでなく、警察と軍隊が関与しました。そうであれば、時の最高権力者の摂政裕仁の国際法上の責任も論じる必要があります。

さて以上のように、軍隊は国民を殺す。これが真理です。

もちろん国民を守った軍隊もあるかもしれません。でも、殺さなかった軍隊を数えるというのは結構難しいことなんです。軍隊内、あるいは無用の「事故」で軍人が死んでいきます。自国民を死なせなかった軍隊を数え上げることはほとんど至難の技です。殺そうと思って殺したわけではないという意味では、殺してない軍隊もあるでしょうけれども、ここに挙げたように、いろんな軍隊が自国民を殺しています。それが普通です。なぜなら軍隊の思考様式がそうなっているからです。命を尊重する組織ではありません。

お隣の韓国軍で言うと「済州島四・三事件」で多数殺していますし、1980年の光州事件、民主化闘争に対する弾圧でいっぱい殺しています。タイでも、ビルマ(ミャンマー)でも、どこを見ても、軍隊は自国民を多数殺しています。

私の捉え方で言うと、外国人を殺したことはないけど自国民だけを一所懸命殺した軍隊がたくさんある。「そこまで極端なことを言うか」と思われるかもしれませんが、これは決して嘘ではない。そのぐらい、軍隊というのは自国民を死なせるのです。一番たくさん外国人を殺してきた軍隊の一つがアメリカ軍ですが、そのアメリカ軍も自国民をたくさん死なせてきました。

これが軍隊のリアリティなのに、そこは全部隠蔽して、あたかも軍隊は国民を守るんだという、根拠のない議論をするのがまさにお花畑なのです。端的に言えば「妄想」です。

 

三 非武装国家のリアリティ

  ――軍隊のない国家27カ国を訪ねて

 

それでは非武装国家はどんなリアリティを持っているでしょうか。非武装国家はお花畑なのか、リアルなのかを考えましょう。

私は2008年に『軍隊のない国家』(日本評論社)という小さな本を出版しました。レジュメには、この本の目次をそのまま掲げておきました。1番から27番まであります。27番がコスタリカとなっています。

コスタリカに軍隊がないことはみなさんご存じと思います。今日、私はコスタリカのTシャツを着てきました。胸に「NO ARMY」と書いてあり、「1948年から軍隊はありません」というTシャツです。コスタリカの首都サンホセの空港売店に山のように積んであります。

たくさんの軍隊のない国家を回ってきましたが、私の問題関心は「9条は世界に影響を与えてきたか」ということです。

『軍隊のない国家』について、あちこちで講演しています。必ず誤解する人がいて、「そんな小さな国のことは日本の参考にならないんじゃないか」とおっしゃる。しかし、私は軍隊のない国家を参考にしようという話をしていません。逆なんです。

私たちは憲法9条を持っているんですから、本来参考にしてもらわないといけなかったんです。「憲法9条のすばらしい条文がありますよ。皆さんいかがですか。無料で差し上げますよ」、それぐらいしておかないといけなかったんです。憲法9条を世界中に輸出するべきでした。でも、日本国はそういう宣伝をしません。9条を隠してきた。あたかも9条がないかのごとく振る舞ってきた。

政府がそうであれば、日本の平和運動は憲法9条を宣伝して、世界に影響を与えてないといけない。「憲法9条は世界でたった1つ、人類の宝だ」と言っていてはいけない。「おかげで憲法9条が2つできました、3つできました」と言ってないとおかしいのです。残念ながら、私たち、それはできていない。

そういうことを調べるために、つまり、世界に27ある軍隊のない国家に行って調べてきました。何を調べたかというと「9条の影響が少しでもあったか」を調べたのです。答えは、残念ながら「一切ない」のです。憲法9条の影響はないんです、残念ながら。

これが結論だと身も蓋もないので、少し現地の様子をご覧いただきます。

最初はミクロネシアという国の港です。とても素敵な海です。ミクロネシアと言われてもなかなか思いつかないかもしれません。

 

軍隊のない隣国

 

「隣国には軍隊がない」と書きました。以前はよくこれでクイズを出していました。「はい、お隣の国には軍隊がありません、どこでしょうか」。

大抵の人が頭の中でパパパッと考えるんです。韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピン。みんな軍隊を持っている。どこだ? と考えるわけです。ほとんどの方の頭の中にないのが、お隣の国ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ、そしてキリバス共和国です。ここは全部、お隣です。日本との間に太平洋の海しかありません。

皆さんは、地図でいつも見ているわけです。台風〇号が発生しましたという天気予報はしょっちゅう見ています。夏から秋には毎日のように見ています。その時に「ああ、ここはミクロネシア共和国だ」と思った人いますか? いませんよね。そんなことは思わないわけです。

しかも、ミクロネシア、マーシャル、パラオは一時期、日本領だったんです。「南洋諸島」あるいは「南洋群島」と呼んでいました。ここを植民地にしていたドイツが第一次大戦で敗れたので、ベルサイユ講和条約で日本の委任統治領ということになり、日本が管轄をしたわけです。その後、日本は国際連盟を脱退して、完全に日本領化しました。例えば今のミクロネシアのチュークという島を、当時、日本はトラック島と名づけて、そこに海軍基地をつくったんです。そういう場所です。つまり日本だったわけです。

日系人の大統領と言えば、皆さん、思い浮かべる名前はペルーのフジモリ大統領です。当時、日本政府もNHKも「日系人初の大統領フジモリさん」と盛んに宣伝して、「フジモリ、フジモリ」と英雄視しました。後に犯罪者となって日本に逃げてきて、「いや、大統領だったけど日本人です」とか言って、匿いました。今は刑務所に収監されているはずです。

しかし、フジモリが日系人初の大統領というのは真っ赤な嘘です。フジモリは日系人6人目の大統領です。ミクロネシアとパラオとマーシャルに日系人の大統領がいたんです。ミクロネシアの初代大統領はトシオ・ナカムラです。三重県出身の方の息子さんなんです。南洋諸島には日系人がたくさんいたのです。

ミクロネシアの珊瑚礁ツアーの観光ボートに乗りました。とても美しい珊瑚の海です。軍隊のない国家の中にはかなりこういう珊瑚礁の島があって、どこでものんびりと観光してきました。

石積みの遺跡ですが、これは何か分かっていません。500~600年前にここにいた人々がつくった施設で、こういう石が数キロ単位にわたって、数ヘクタールの地域にたくさんあります。そこにいた人々が今いないので、何であるのかは分かってないんです。宗教的な施設なのか、軍事的な施設なのかも分からない。

石垣の島に上陸して写した写真です。小さくて分かりにくいかと思いますが、私が着ているTシャツは、鳩が飛んでいる、国連の平和のTシャツです。

次がパラオです。「親日で知られるパラオ」、かつて日本領だったパラオ共和国です。当時の首都の通りに、かつて南洋庁の建物だったもので、日本が造った建物です。その後、パラオが独立した後に最高裁判所として使われていました。現在の最高裁判所は新しい首都に移転したので、現在はここじゃないんですが、これがパラオの旧首都コロールという町中になります。

ミクロネシアとパラオは、後で触れますが、非核憲法――核兵器を持たない、核を許さないという憲法を持っている国です。

かつて日本が原発廃棄物を日本海溝に捨てるという暴挙を試みた時、真っ先に反対の声を上げたのがこの国です。「そんなことはやめてくれ」と。それで南太平洋フォーラムの国々が声を上げて、日本に「放射性廃棄物を太平洋に捨てるな」という声を上げたことがあります。今、福島原発事故の汚染水問題があります。中国が批判していることだけ報道されますが、太平洋の島々こそ被害者になりかねないのです。

石灯籠の写真です。コロールの同じ通りなんですが、かつて日本人が神社を造ったので、あちこちにこういう灯籠が残っています。

ミクロネシアのヤップにも神社があります。ある漫画では、現地の人たちが親日派なので、一度壊れた神社を復元して建て直したという話が描かれています。

確かに建て直したんですが、なぜ建て直したかというと、まず日本人が造った神社を壊して捨てました。ところが、その人たちがみんな、よく分からない奇病で亡くなったんです。「祟りだ」ということになって、再建したのが今ある神社なんです。その部分が抜けると、ミクロネシアは親日派なので「神社を造ってくれた」とか言って、日本人が喜んでいる訳です。

パラオ国立博物館の前に日本人の銅像があります。小さくて見えないかもしれませんが「平和の礎」と書いてあって、下に「President Haruo」と書いてあります。ハルオ君なんです。この人はパラオの第3代大統領です。

次の写真には「99年間のリースを止めろ」と書いてあります。「将来の世代に贈り物を与えよう」と書いてあります。何かというと、パラオは、米軍が基地を設置したい、使いたいということで、米軍との交渉のもとでそれを許可する形になっています。

軍事基地はないし、軍人もいないんですが、いざというときは米軍がパラオの港を使える。その敷地を米軍にリースしてくれという話があって、それには、さすがに現地の人たちが反対運動を一所懸命やっているのです。

そもそもパラオの非核憲法も核兵器の持ち込み禁止になっていますが、アメリカとの関係の中でちょっと制約されて、本当の非核憲法ではなくなっているんです。いろんなやり方をして、アメリカが核兵器を持ち込むことができるという例外ができている。他方、ミクロネシアの憲法は100%非核憲法です。パラオの憲法は、アメリカがここを使いたいがゆえに「使える」というのが残っているので、本当の非核憲法ではないという形になっています。

なぜかというとグァムに近いんです。沖縄の普天間基地や嘉手納基地の撤去闘争の中で問題になったのは、最初にグァム移転ということが上がっていました。今はすっかり消えていますけど、一時期、アメリカがグァムに移転すると言ってました。日本でもこの話はよく出ていました。でも、米軍文書をよく見ると「グァム・パラオ移転」なんです。

グァムの軍事基地自体、これ以上拡張できないので、移転するにしても暫定措置なので、残り一部はパラオに移転したいというのがアメリカが考えたことです。

皆さんの側から見て右端がカリフォルニアとすると、中心寄りがハワイになります。その次がパラオになり、グァムになって、左側に沖縄、そして左端が中国という流れなんです。つまり対中国の軍事戦略にとって、グァム、パラオというのは最大の拠点です。その前線基地が沖縄という形になるので、米軍としてはパラオを押さえておきたい。パラオは超弱小・ミニ国家ですので、抵抗し切れずに、それを延ばしてしまったということがあります。

後でまたマーシャル諸島をご覧いただきますが、ちょっと飛んで、非核ということではクック諸島です。

 

南太平洋非核地帯

 

ラロトンガの港の前にクック諸島政府の建物があります。これは新しい建物ですが、かつてこの場所、同じ場所で、非核条約がつくられています。

南太平洋地域の国々で、南太平洋非核地帯条約をつくりました。クック諸島の首都ラロトンガで採択されたので、ラロトンガ条約とも呼ばれます。つくったのが1985年8月6日です。南太平洋諸国の人々が、わざわざこの日を選んで非核地帯条約をつくりました。広島の市民が「平和メッセージ」を送っています。

そういう記念すべきものがつくられたのがクック諸島です。クック諸島というのは南十字星がきれいで、とてもすばらしいところです。

クック諸島の議会の建物はとても小さいです。観光センターでは、観光客向けの踊りを見せてくれて、軽食をごちそうになりました。

次にニウエです。「太平洋の岩」と呼ばれます。一つの島全体が珊瑚礁です。なぜこんな高いかというと、地殻変動で60メートル珊瑚礁が隆起した。そのために高いところにあります。とても小さな国です。島の上は半分がジャングルですが、サンゴ礁の島なので、下には鍾乳洞があります。

ニウエの政府の建物です。裏側はもう海になります。近くに鯨ウオッチングの船が出る港があります。

ニウエの海岸はキャプテン・クックがたどり着いた海岸と言われています。18世紀のイギリスの「冒険王」とされたキャプテン・クックの船が、太平洋を20年くらいで探査しています。なぜか日本には来てないんですが、それ以外の太平洋の至るところを調査して、世界地図をつくり、資源を集めたりしていたわけですが、ここにも来たという場所です。

次にマーシャル諸島です。マーシャル諸島の大統領官邸です。

さらにマーシャル諸島の政府です。議会も行政もこの中に入っている、マーシャル諸島政府の建物です。

すぐ近くに「ビキニ環礁のタウンホール」があります。ビキニ水爆実験で現地の方たちがこのビキニ島に住めなくなった。太平洋には幾つか米軍の核実験で人の住めない島があるんですが、そのうちの一つです。ビキニは大変有名なので説明するまでもないと思いますが、1954年3月1日にブラボーと言う名前の水爆が炸裂しました。島の住民は、実験する前に強制移住であちこちの島に移されたわけです。帰りたいけれども帰れない。行った島々にはその前から住んでいた人たちがいますから、自分たちの家にはならない。とても大変な思いをして暮らしているんですが、その人たちの連絡センターが、マーシャル諸島の首都マジュロの町の中にあるこの建物です。

この向かい側に水爆実験のミュージアム、博物館もあります。博物館の展示のかなりの部分が、日本の豊崎博光さんをはじめ、核問題をずっと調査してきた方が集めた資料です。現地にはほとんど資料がないということで、日本人が協力してここでいろいろやっています。今は竹峰誠一郎さんという研究者がずっと頑張っています。

次はマーシャル諸島の普通の町中の道路です。首都マジュロの普通の道路で、両側にあるのは民家です。単なる民家の間の道路です。ここで1枚、パチリと写真を写しました。「右向け右」をします。

右を向くと、こうなります。向こう側に海が見えます。洗濯物を干してあります。民家なので洗濯物を干しています。私の足元の高さにご注意ください。道路に立っています。そして「右向け右」をします。こうなります。そしてそのまま真っ直ぐ歩くと海に出ます。

このとき干潮時でした。引き潮だったので海が遠くにあります。満潮時にはここが全部、海になるわけです。島が海に沈むという問題が起きているところです。トゥヴァルもそうなんですが、マーシャル諸島もすごいです。何しろマーシャル諸島の平均標高が2メートル。海抜2メートルの国です。津波が来ると大変なことになるというのはすぐお分かりいただけるかと思います。

 

海に沈む国

 

トゥヴァルという小さな珊瑚の国があります。ニュースでも何度も流れたのでご覧になっていると思いますが、珊瑚礁の島で、8つの島でできていた国です。今は9つの島です。人が住んでいるのは9つの珊瑚礁の島。そういう島々から成る国です。本当に細長い、新月のような、三日月の形をしている珊瑚礁。外海と内海になるんですね。

真ん中が一度、海に沈んだところです。白っぽいところです。アスファルトの道路なんですが、一度、海に流されたんです。そこをコンクリートで固めています。なぜそうなるかというと、両側に緑の並木があります。正面には並木が続いています。手前の両側も全部、もともと並木があったんです。だけど、ハリケーンか何かで流されて、木がなくなる。そうすると地面が削られてしまって、一度ここが分断された場所です。

これは一番有名なところです。十数年前に石原慎太郎東京都知事(当時)がここに行ったというのでニュースになりました。同じ場所がTVに映ってました。

海にご注意ください。右と左に海が見えます。少しだけ見えます。左の海には波がありません。右の海に波があります。右が太平洋、左が珊瑚礁の海(ラグーン)です。全く違うんですね、海の様子が。

次にトゥヴァルで一番高い場所です。標高1.5メートルぐらい。一番高い場所に私が立って、カメラのシャッターを押しました。すごい場所だというのが分かりますね。少し斜めを向くとこんな感じです。私が立っている場所は、波で太平洋の石が積み上がったので、そこがこの島で一番高い場所です。海岸が一番高いんです。後ろを振り向くと、一旦低くなるんです。

そのぐらいすごい標高のところで、トゥヴァルが本当に海に沈むということで、今、国の政策として、移住政策を進めています。オーストラリアと協定を結んで、数十年がかりで、順次オーストラリアに移住をする。オーストラリアが受け入れて、毎年50人ほどオーストラリアの滞在許可がもらえる。永住許可ももらえるということで、いざとなったらみんなオーストラリアに移転することになっています。

今いる人たちはほとんど出稼ぎ状態で、オーストラリアに行って働けるとかいうので喜んでいるんですが、将来は本当に大変なことになるところです。

私が泊まったホテルから写した写真です。とても素敵な、ラグーンに沈む夕日です。

国営ホテルの1階の部屋に泊まっていたのですが、そこは部屋が9つで、18人しか泊まれないんです。19人目の人は泊まる場所がない。他にホテルはありません。

そのぐらい小さい国なんですが、私は1階の部屋だったので、夜、横になったときにこれを思い出して、眠れなくなりました。津波が来たらどうしようと一人で少し震えました。すばらしい夕日だと思うんですが、本当にすごいところですね。現地では、津波が来たことはなさそうで、余り分からないようでした。

現地の子どもたちが洗面器を持ってポーズを取ってます。これも遊んでいる子どもたちですね。

次はインド洋のモルディブという国です。モルディブは100%イスラム教徒の国で、マーレという首都があります。それ以外の島々は珊瑚礁の保全区域になっています。あるいは、いろんな珍しいカメとか熱帯魚の保全地域になっています。観光で日本人もよく行くので、行かれた方もいらっしゃるかもしれません。

モルディブ人は100%イスラムなので、首都のマーレではお酒が飲めません。アフガニスタンのカーブルでもお酒を飲む方法があって、私はいろいろ手配して、手に入れて飲んだりしていました。あるいは、一番規制が厳しいパキスタンのペシャワールでも、外国人だったら飲めるお店があって、そこで飲みました。パスポートを出して、イスラム教徒でないと証明すれば、お酒が飲めます。そういう店があります。マーレでも探しました。1週間探しましたけど飲めません。本当にない。どこに行ってもないので、「本当はあるんでしょう」などと言いながら探したんですが、みつけることができませんでした。

遂にみつからなかったので、やむを得ずボートに乗って、観光客向けのホテルに行きました。1つの珊瑚礁の島に1つホテルがあるんです。木造の建物なんですが、そこに行けば外国人向けにワインを置いてあります。首都マーレではお酒が飲めない。さすが100%イスラム教と思いました。

 

女性がつくった憲法

 

ヴァヌアツ共和国が憲法を制定した場所です。

右の白い建物が政府の建物で、この敷地で1979年に憲法制定記念式典が行われました。そのときにテープカットと署名をしたのはグレース・メラ・モリサという女性です。女性がつくった憲法です。

それを知った瞬間、「女性が憲法制定とは、知らないな、聞いたことがないな」と思いました。残念ながら、聞いたことがありませんでした。もちろん女性が関わったというのはたくさんあると思いますが、女性が中心になってつくった憲法というのは聞いたことありません。

大日本帝国憲法は、もちろん全て男がつくりました。日本国憲法は、当時、39人の女性国会議員がいたはずです。1945年12月の公職選挙法で、女性が初めて参政権を手にして、衆議院議員に39人女性が選ばれています。緑風会などですね。しかし、憲法制定史の研究のどこをどう見ても、女性の名前が一切出てこない。男性たちが取り仕切っていて、女性は片隅に追いやられていたのではないでしょうか。ですから、最終的に衆議院本会議で「賛成」と言うときだけ、女性の意思表示があったということになります。

ヴァヌアツのグレース・メラ・モリサはヴァヌアツ人女性で初めて大学を卒業して、小学校の先生になり、高校の先生になりました。ところが、結婚相手が社会問題大臣に選ばれたので、大臣のパートナーになりました。独立時には首相になったので、グレースさんは首相夫人になります。首相夫人になる予定のときに、パートナーに頼まれて憲法制定委員会に入ります。そして憲法制定にかかわり、条文づくりをしました。もちろん1人ではありませんが、中心人物の一人として、ヴァヌアツ憲法をつくった。1980年10月1日施行のヴァヌアツ憲法をつくったのがグレース・メラ・モリサです。

私は全く知りませんでした。現地へ行って初めて知りました。私の本の100ページに彼女のそのときの写真を載せてあります。残念なことに2002年に56歳で亡くなったということで、私はお目にかかることができませんでした。

太平洋地域の女性運動の中では、今や「伝説的な存在、グレース」と言われている人で、ヴァヌアツの女性のロールモデルです。女性が社会進出するためのロールモデルとして真っ先に掲げられるのがグレースです。 この地域のフェミニズムの歴史の本を見れば必ず出てきます。日本のフェミニズムの世界では誰もグレースを知らないだろうと思います。

私は長いあいだ国連人権機関に通って、アフリカ、ラテンアメリカ、そして太平洋のフェミニズムに触れてきました。アフガニスタンのフェミニズムを含めて、いわゆる「第三世界」――アジア、アフリカ、ラテンアメリカのブェミニズムに学んできました。最近ではサウス・フェミニズムと呼ばれています。私はアメリカや欧州のフェミニズムには学んでいません。日本フェミニズムの著作はかなり読みましたが、魅力を感じません。サウス・フェミニズムに学びます。サウス・フェミニズム、第三世界フェミニズム、これはこれで非常に重要と思いましたので紹介しました。

 

虹の国、インド洋のトラ

 

モーリシャスはインド洋にあります。アフリカ大陸があって、その東にマダガスカルという大きな島があります。さらにその東、インド洋の中にあるモーリシャスという小さな島国です。住人はアフリカの人です。東アフリカからやってきた人々が住んでいた場所で、そこをオランダが植民地にします。次にフランスが植民地にし、そしてイギリスが植民地にしました。

このために現地の人たちは、アフリカの言葉と英語とフランス語と、それが混ざり合ったようなクレオール語などを話します。そこにインド洋を隔てたインドからインド人がベンガル湾から運ばれてきて、労働者として働いています。イギリス支配下でインド人を移住させました。今もインド人がたくさん住んでいます。

それから中国からも、中国圏、東南アジア経由の元中国の方たち、いわゆる「華僑」もやはりここに来たので、非常に雑多な人々が住んでいます。いろんな人種によるいろんな言葉、そしていろんな宗教――キリスト教(プロテスタント、カトリック)、ヒンドゥ教、仏教、それぞれの寺院、教会もあります。このために「私たちの国は虹の国である」という言い方をしています。そういうモーリシャスの首都の写真です。

島の真ん中に、カラード・アース――「色のついた土地」と言うんですが、私は「虹の大地」と翻訳をしています。カラード・アース、色のついた土地です。

写真では分かりにくいかもしれませんが、実際に目で現地で見ると、赤、青、緑、黒、黄色、紫もあります。いろんな色がここに散りばめられています。鉱物がいろんな形で反射して、とてもきれいな地面です。黙っていても日差しが変わるとどんどんキラキラの度合いが変わってくる、とても素敵な大地です。

これは虹の国なので、この国の人たちにとっては誇りであり、宣伝でもあるのが、この「カラード・アース」になります。

ただ、モーリシャスの海上警備隊が強化されていて、軍隊化しているのではないかという疑問も生じています。

 

自由の国、ユダヤ人救出

 

次にヨーロッパになります。ヨーロッパに位置する軍隊のない国は7つあります。

イタリア・ローマの真ん中にあるのがバチカン市国という国です。

サンピエトロ寺院にはローマ教皇のボディガードがいます。「スイス衛兵」という呼び方をされます。イタリアの真ん中にあるんですが、ローマ教皇のボディガードは全員スイス人です。スイス人男性で25歳から40歳のカトリックの人。その人でないと、なぜかローマ教皇のボディガードにはなれないんです。イタリア人はなれないんだそうです。とても不思議なんですが。

この人たちは「衛兵」と呼ばれていますので、軍隊じゃないかという話にもなりかねないんですが、この服装は、どう見ても戦う服装ではなくて、儀礼のときに出てくるんですね。ローマ教皇が世界を飛び回るときにはきっちりボディガードをしているんだそうです。

次にアンドラ公国です。これは普通の建物の敷地なんですが、ここはアンドラ公国の首都アンドラ・ラ・ベリャの真ん中です。正面は教会なんですが、左の茶色の建物がアンドラ・ラ・ベリャの市役所です。この建物の裏に行くと、向こうに山が見えます。2,000メートル級の山です。

アンドラ国はフランスとスペインの間にあります。ピレネー山脈という山脈の中にあります。2,000メートル級の山の中です。

この国に軍隊がないんですが、ありていに言うと、山のど真ん中で、誰も攻めてこなかったから軍隊は要らない。ただそれだけの話なんですが、国家としては1290年頃に国家になった。700年間の歴史があって、一度も軍隊を持ったことがない。戦争したこともない。そのことが今の憲法に書いてあります。憲法の前文に「700年のアンドラの平和の旅。私たちはこの平和の旅を続けるのだ」と書いてあります。

軍隊を持ってないことに意味があるのではなくて、軍隊がないがため、自分たちがつくってきた文化と平和を守るという、その国の人々の志に意味があるのです。

次にサンマリノです。イタリアの中にある国です。イタリア共和国の中にバチカンとサンマリノという別の国があるわけです。サンマリノは、イタリア東部のリミニという町からバスで行くと30分ぐらいで着くんですが、山の上にあります。山の上に塔が建っています。真ん中に塔がちょっと建っているのが見えます。こういう塔が3つあります。

山の上に3つの塔を建てて、それを城壁でつなぎます。下から登って攻めてくることができないようになっています。

サンマリノは、マリノさんという聖人が住んでいたところで、サンマリノになったんですが、西暦390年からの歴史を持っている国です。かつて軍隊を持っていました。しかし軍隊を廃止して、今は持っていません。

サンマリノの自慢は、ヨーロッパで最初のデモクラシーの国だと言っています。普通の国際政治学ではイギリス又はフランスと考えるんですが、それよりも前に、サンマリノが民主主義の国になっていました。しかし日本で出ている民主主義の教科書・研究書にサンマリノの名前は出てきません。

バスでリミニから行くと、サンマリノに入るところにアーケードがあって、そこに「Welcome to free state San Marino」と書いてあるんです。「自由の国へようこそ」と、この国が自分で宣言をしているという国で、その自由の意味は、アメリカの自由とも違うし、ターリバーンの自由とも違うんです。もう500年以上、民主化された政権をつくっている国がサンマリノです。

サンマリノの苦難の歴史が第二次大戦中にあります。1つはイタリアがファシズム政権になった。ムッソリーニのファッショ政権になったときに、ユダヤ人が逃げてきます。ユダヤ人をかくまうんですね。サンマリノの人口が1万5,000人のときに、1万人のユダヤ人を助けています。山の上です。海に面していません。飛行場もありません。鉄道もありません。自動車しか走れない。周り360度、全てイタリアです。イタリアの中にあります。でも、ユダヤ人を守り通したんです。

病院、学校、教会、民家に分けて住んでもらって、少ない食料を分け合うという形で、数年間、必死で耐え忍んでユダヤ人を助けた。これがサンマリノの誇りです。第二次大戦が終わった後に、世界ユダヤ人教会がサンマリノに感謝状を送りました。次のリヒテンシュタインも同じなのですが、そういう国は数少ないんです。

ところが、それだけではない。もう一つの苦難があります。イギリス軍が間違えて爆弾を落としたところであって、それで数人のサンマリノ市民が亡くなっています。ですから、慰霊の銅像が建っています。サンマリノが経験した唯一の戦争行為は、イギリス軍の誤爆であったということです。

次にリヒテンシュタイン侯国です。スイスとオーストリアの間にあります。スイスの東です。私は長年、スイスの国連人権機関に行っていますので、リヒテンシュタインにも何度も行っています。大好きな国で、ライン川の支流が流れています。

川の向こう側がリヒテンシュタインで、手前がスイスになります。一方にリヒテンシュタインと書いてあって、他方にスイスと書いてあります。これは昔からこうです。何かというと、国境に検問所がもともとないです。今、EU統合で、皆さんもヨーロッパへ行かれたときに、例えば成田空港から飛んでいって最初の空港で入管のチェックをすれば、あとはフリーパスで通れるというのはご存じだと思います。フランスでEUに入れば、ベルギーやドイツにはフリーで行けます。あれは「シェンゲン協定」ができたからです。

ところが、ここはシェンゲン協定以前からずっと検問所がないので、フリーパスで通れました。私が初めて行った30年ぐらい前は、ここを行ったり来たりして、「はい、スイスに入国、リヒテンシュタインに入国」と言って、一人で遊んでました。ここからずっとこの状態です。

シェンゲン協定ができて、今はもうどこも、ヨーロッパの場合はそういうふうになっていますが、当時は珍しかったので、遊んでいたわけです。

リヒテンシュタイン最後の兵士の絵葉書があります。1868年、明治維新の年にリヒテンシュタインが軍隊を廃止しました。それ以前、リヒテンシュタイン侯国は軍隊を持っていたわけです。小さいながらも持ってました。というのは、当時18~19世紀にかけて、神聖ローマ帝国に属していました。

歴史で教わったかと思います。ドイツを中心に、西欧から中欧にかけて小さな国々を全部統合して、全体を神聖ローマ帝国と呼んでいた。その中にプロイセンや、バイエルンや、ザクセンがあります。いろんな地域ごとに別の国になっていたわけです。リヒテンシュタインもその一つです。

ですから、みんなそれぞれ軍隊を持っていて、それを全部集めて「神聖ローマ帝国の軍隊」にしていたわけです。そういう義務があるので、ちゃんと軍人を送り出さないといけない。だから、リヒテンシュタインも軍隊を持ってました。

ところが、ナポレオン戦争でひどい目に遭いました。リヒテンシュタインは弱小の農業国家でしたから、ナポレオン戦争で何が起きたかというと、ふだんの軍人だけじゃなくて、駆り出された若者が全部送り出される。そのために農業の担い手がいなくなって、1年間収穫がない。農民が食べていけない事態が起きる。

普仏戦争のときにも同じことが起きます。何度か戦争に巻き込まれて、若者が死ぬ。そして農業ができない。これで困ったので、農民たちが税金を納めることができなくなります。軍隊に人が取られて、税金もこんなに高いんじゃ食べていけないということで、農民運動を起こすわけです。

これは2~3回起きるんですが、いよいよ議論が強まって、議会で軍隊を廃止しようという話になります。税金をやめるわけにはいかないので税金は取るけれども、その代わり軍隊を廃止して、今後、神聖ローマ帝国に協力しない。リヒテンシュタインは独自の道を歩む。軍隊はやめると、議会で審議をした。

ところが、王様――リヒテンシュタイン侯国なので侯爵様がいるんですが、レオポルド2世が怒るわけです。「何を言ってるのか。議会が勝手なことをするな。許さない。軍隊は私の権限である。議会の権限ではない。議会で勝手に軍隊を廃止なんて言ってはいけない。私の権限で廃止する」と、廃止してしまいました。

そういう王様がいたんです。レオポルド2世と言うんですが、それで軍隊が解散になりました。そのときに失業した人たちがいます。失業した人の一人が、50年後に記念撮影をしました。この方は若いときに失業したわけです。ただ、制服は全部保管していたんですね。それで最後に記念撮影をして残した。それが今、絵葉書として売られている訳です。明治維新の年である1868年、王様が軍隊を廃止したのがリヒテンシュタイン侯国です。日本は同じ年から軍国主義の道を走り始めます。

リヒテンシュタインは後に憲法をつくります。1921年の憲法で「軍隊を持たない」と書きました。その話はまた後で触れます。

リヒテンシュタインはサンマリノと同様に、第二次大戦時にユダヤ人を助けたことで知られます。リヒテンシュタインはドイツ語圏で、東側はオーストリアです。ナチス・ドイツがオーストリアを併合しましたから、すぐ隣がナチス・ドイツになりました。

リヒテンシュタイン侯爵家は世界有数の美術品コレクターでしたから、ヒトラーがリヒテンシュタインの美術品を狙います。美術学校出身のヒトラーは各国の美術品にも触手を伸ばしていました。リヒテンシュタインは、ヒトラーに奪われいないように美術品を隠すのに苦労しました。

それ以上に苦労したのがユダヤ人救出です。東のオーストリアはナチス・ドイツに併合され、後にマイダネク強制収容所が設置されました。オーストリアからユダヤ人がリヒテンシュタインに逃げてきます。リヒテンシュタインはサンマリノと同様に、海もなく空港もありません。多くのユダヤ人はリヒテンシュタインを経由してスイスに逃げて、スイスから飛行機で亡命しました。リヒテンシュタインに滞在して、そのまま住むことになったユダヤ人もいました。ナチス・ドイツと国境を接しながら、弱小のリヒテンシュタインがユダヤ人を救いました。これがリヒテンシュタインが国際社会で「名誉ある地位」を占めている理由です。

ヨーロッパにはさらにモナコ公国があります。地中海に面した軍隊のない国家です。モナコ建国の英雄像や、コートダジュールの海岸が有名です。

北欧にも軍隊のない国家があります。アイスランドの首都レイキャビクのハトリグリム教会は一番高いところにあるので、町のどこからも見えます。丘の上にあって高いのでどこからでも見えるんですが、エレベーターで上がって一番上から見下ろすと、町全体が見えます。レイキャビクの町です。

アイスランドには実は2005年まで米軍基地がありました。アメリカ・アイスランド協定によって米軍が駐留していました。日米安保条約と同じ種類の条約です。ケフラビク空軍基地というのがありました。しかし2005年に撤退して、基地がなくなりました。もともとアイスランド軍はないので、米軍が撤退したことでアイスランドは完全に軍隊がない国になりました。そのときに「軍隊を持たない」と決めたのがアイスランドです。

米軍の都合でアイスランドに米軍が駐留していたのですが、2005年に米軍が撤退しました。80年ほど続いた米軍駐留が終わりました。同様のことはパナマでも起きます。パナマ運河建設以来、約100年に及んだ米軍駐留が終わりました。外国軍駐留が永遠に続くわけではありません。

 

自由と独立を求めて

 

次に、中米・カリブ海です。

ドミニカ国に行ったところ、ちょうどカーニバルでした。カーニバルの写真をご覧いただきます。かなり小さな規模ですが、こんな感じで皆さん、パレードをします。35℃の暑さの中でこれをやってました。すごい汗だくでした。東京と同じで湿度も高かったです。

この左奥に縦長の窓の建物、5~6階建ての建物があります。これが政府の建物なんですが、ここで1980年頃にクーデターが起きて、そこで国民が3人ほど殺されています。それがドミニカが軍隊を廃止した理由です。クーデターで軍隊が国民を殺してしまったというものです。

セントルシア、グレナダ、セントヴィンセント・グレナディンズ、セントクリストファーネイビスも軍隊がありません。これらはイギリスから独立しました。植民地と奴隷制に抵抗して、自由と独立を求める闘いを続けた国々です。博物館で国家の歴史を展示していますが、どこでも奴隷制廃止の歴史が描かれています。

日本ではアメリカ合州国の奴隷解放の物語だけを持ち出します。リンカーンのお話です。半分嘘です。というのも、1860年代にリンカーンが登場するよりも前、1820~40年代にカリブ地域では奴隷制廃止の闘いがあり、次々と奴隷制廃止を実現しています。その歴史を全て消して、リンカーンを英雄に仕立て上げるわけです。世界の奴隷制が次々に廃止され、最後まで残った奴隷大国アメリカもやむをえず奴隷制廃止にたどり着いたのです。

カリブ諸国の小中学校の歴史教科書には、奴隷制との闘いと、独立を求める闘いが掲載されています。実力で闘って自由と独立を獲得した国々が軍隊を廃止しました。

大陸の一番細い部分がパナマとコスタリカです。

パナマはかつてノリエガ将軍が実権を握って、アメリカの言いなりにならなかったため、米軍が侵攻してノリエガを身柄拘束しました。アメリカはパナマ運河を確保したかったからです。この時にパナマ軍は解体されました。アメリカによって武装解除されて、軍隊が廃止された訳です。1994年に軍隊を持たないという憲法が制定されました。

最後がコスタリカです。首都サンホセの中心の国立劇場は「コスタリカの顔」と言われている劇場です。すてきな建物です。

コスタリカはエコツーリズムで有名です。自然保護が基本政策です。ナマケモノ、アリクイ、ジャガーなどいろんな動物がいます。

とびきり有名なのがケツァールという鳥です。緑、青、赤、そして尾っぽが長くて白いんですが、「世界一美しい鳥」と言われているケツァールです。

現物をなかなか見ることができません。私は何度か行きましたけれども、現物は残念ながら見ることができませんでした。「コスタリカ博士」の足立力也さんは何度も見ているそうです。「日頃の行いが悪いから見ることができないんだ」なんて冗談を言っていました。日頃の行いの悪い私は残念ながら見ていません。

ケツァールは手塚治虫の「火の鳥」のモデルと言われる鳥です。ケツァールがいて、コスタリカはエコツーリズムで大変有名な国です。パナマもエコツーリズムで有名です。パナマ運河の両側の地域は長年、開発されずに自然が残っていたからです。

 

四 非暴力・非武装・非同盟・不服従

 

非武装憲法

 

世界には非武装憲法が5つあります。

1921年、リヒテンシュタイン侯国憲法第44条に「軍隊を持たない」と書いてあるんです。これは皆さん初めて聞くはずです。私は長年この話をしているのですが、憲法学者はそれを認めようとしません。日本国憲法の本には一切出てきません。「日本国憲法9条が世界で初めてだ」と言ってきたので、1921年リヒテンシュタイン憲法は存在しないことになっています。憲法第9条は1946年です。私がいくら言っても、誰もリヒテンシュタイン憲法の存在を認めません。でもリヒテンシュタイン憲法は実在します。

さらに1949年コスタリカ共和国憲法第12条、1979年キリバス共和国憲法第126条、1994年パナマ共和国憲法第305条(現310条)も非武装憲法です。そして、1946年の日本国憲法第9条です。リヒテンシュタイン、コスタリカ、キリバス、パナマは非武装憲法を持っていて、実際に非武装です。憲法に書いてある通りになっています。

日本は憲法第9条に非武装と書いてあるのに、自衛隊があるうえ、在日米軍が駐留しています。ジャーナリストの斎藤貴男さんは「世界最強の軍隊が日本列島にいる」と言っています。非武装憲法を持っているのに重武装している唯一の国が日本です。

非武装憲法の制定はコスタリカが1949年、キリバスが79年、パナマが94年です。1946年の憲法9条とは全くスタイルが違います。どの憲法も憲法9条の影響を受けていません。

コスタリカは1948年の内戦時に軍隊が国民を殺したために、軍隊をなくしました。そのうえで1949年憲法を制定しました。自分で軍隊を廃止して、非武装憲法を制定して、それを守っています。

パナマは米軍のパナマ侵攻で潰されて軍隊がなくなりました。その後、1994年に軍隊を持たない憲法にしました。そしてパナマ運河返還によって、米軍がいなくなった後も軍隊を持たないままです。

中米諸国はかつてのニカラグアをはじめ、内戦やクーデターが続いた国々です。その中でコスタリカとパナマが軍隊を持たずにいます。

 

軍隊のない国家の特徴

 

第1に、もともと(長い間)軍隊を持っていない国があります。

例えばアンドラは700年です。建国以来、一度も軍隊を持ったことがありません。サンマリノも500年ぐらい持っていません。3つの城の一部が博物館になっていて、そこに昔の軍隊の武器が展示されています。モナコは300年ほど持っていません。かつて軍隊があったのですが、廃止しました。

第2に、軍隊が国民を殺害したために廃止した国です。コスタリカとドミニカがここに当たります。軍隊は国家を守るもので、国民を守るものではありませんが、それどころか軍隊が国民を殺してしまった。これを反省してコスタリカは憲法で軍隊を廃止し、ドミニカは法律で軍隊を廃止しました。

第3に、外国軍によって占領されて軍隊が解体された国です。グレナダ革命を潰すためにアメリカが介入して、グレナダ軍を武装解除しました。ノリエガ将軍が言うことを聞かなくなったために米軍がパナマに侵攻し、大量殺害して軍隊を解体しました。グレナダもパナマもアメリカによって武装解除されました。

これは日本と同じパターンになります。そこが問題なんです。「日本国憲法9条で軍隊を廃止した」と言いますが、違います。日本国民が軍隊を廃止したわけではないんです。戦争に負けて、軍隊が崩壊して、なくなりました。米軍によって武装解除されたのです。そして日本国憲法9条がつくられます。残念ながら、私たちは自分の手で軍隊をなくすという経験は持っていないんです。そこは大きなポイントなのに、ごまかしてきました。みんあ喜んで騙されてきました。

憲法学者は70年以上、「誰が第9条を言い出したか。マッカーサーだったのか、幣原だったのか」という議論をして、あたかもその議論によって軍隊を廃止したかのように言ってきました。嘘です。大事なことを見えなくさせる物語に熱中しているのです。

現実には、本土では米軍によって武装解除されて、軍隊がなくなったのです。中国では、中国軍によって武装解除されたのです。旧日本軍の解体過程を無視して、憲法9条の夢物語だけを論じるのは、憲法学が営々と築いてきた虚妄の物語です。

確認します。日本国民が自らの意思で軍隊を廃止したのではありません。気が付いたら軍隊がなくなっていたのです。

同時に憲法第9条について確認しておくべきことは、戦争への反省が明確に書かれているけれども、植民地支配への反省は第9条にも憲法前文にも明示されていないことです。その後の歴史を含めてみても、植民地主義への反省がなされていません。そのことが再びアジアに対して侵略シタリ、植民地化しようとする欲望につながっている疑いがあることです。この点は前田『憲法第9条再入門』(三一書房)で論じておきました。

第4に、集団安全保障体制を結んだ国です。軍隊を持っていないけれども集団安全保障体制を結んでいる国は、カリブ海の国々です。ここは軍隊を持っている国と持ってない国とがそろって、集団安全保障体制を結んでいます。

第5に、外国との自由連合協定下にある国です。クック諸島がニュージーランドと、ニウエがオーストラリアとの関係で自由連合協定を結んでいます。ミクロネシアとパラオがアメリカの圧倒的影響下で、準自由連合協定の下にあります。自前の軍隊はないけれども、いざとなれば、建前上は外国軍に守ってもらうことになるので、軍隊を持ってないと言っても意味が違うということになります。モナコもフランスとの関係で似たような位置にあります。

第6に、非武装永世中立の国です。これはコスタリカです。

永世中立と言うとスイスが有名ですが、スイスは武装中立です。スイスは軍隊を持っているだけではなくて、各家庭に銃を配備しています。自分の国は自分で守るという建前なので、市民が銃の訓練、扱い方も訓練をしています。

かつて「軍隊のないスイス運動」が起きて、国民投票を行いました。30%を超える票を獲得しました。50%に満たなかったのでスイス軍は健在です。それでも軍隊廃止が30%を超えたのは衝撃だったと言われています。

オーストリアとマルタも中立国ですが、武装中立になります。非武装中立で平和外交というのは、コスタリカだけです。

第7に、非核憲法をもつ国です。

ミクロネシアが本当の非核憲法です。さらに言うと、ミクロネシア憲法は核兵器だけではなくて、核物質そのものを認めないという形になっています。核兵器の持ち込み、保有、製造も禁止ですが、核物質の持ち込み、保有、製造も禁止です。当然、原発も禁止ということになります。

それから南太平洋は非核地帯条約(ラロトンガ条約)があるので、クック諸島、サモア独立国、ソロモン諸島、ヴァヌアツ国も非核地帯になります。

他方、パラオにも非核憲法があります。ただ、本当の非核憲法ではありません。制定時は非核憲法でしたが、アメリカがパラオの港を使いたいということで介入して、パラオは大混乱になりました。結局、米軍については例外を認める形になったので、本当の非核憲法ではなくなりました。

なお原発禁止の憲法としてはオーストリア憲法があります。大阪経済法科大学の澤野義一教授(憲法学者)が、オーストリア憲法の原発禁止憲法の論文を書かれていたので、私が「ミクロネシア憲法もそうですよ」とお伝えしたら、澤野教授の著書では「ミクロネシアも脱原発の憲法である」と書かれています。

 

国家に軍隊は不可欠か?――「常備軍の神話」

 

軍隊のない国のもう一つの注目点は、軍隊を持たないということに意味があるのではなくて、軍隊を持たないがゆえに平和外交をする、平和教育をする、平和の文化をつくる、それを意識的にやってきたことです。コスタリカが有名ですが、そこに意味があるということになります。

憲法第9条があるのに、ほとんど軍国主義に塗れて「敵基地攻撃」などと言っている国は尋常ではありません。「この国に憲法はあるのか」と真剣に考える必要があります。先ほど述べたようにアフガニスタンには憲法がありません。それでは日本には憲法はあるのでしょうか。日本は立憲主義と言えるでしょうか。こうした議論がなされないことに、この国の腐朽度の深刻さを見るべきでしょう。

軍隊のない国家について、まとめておきます。

第1に、国連加盟国193カ国のうち24カ国が軍隊を持っていません。

軍隊のない国家の数え方は微妙なところがあって、例えばハイチにも国軍がありません。ただかつて悲惨な内戦が起きて、国連PKOが駐留しています。ルクセンブルクにも国軍がありません。ルクセンブルクは北大西洋機構(NATO)に加盟していて、国民がNATO軍に入隊しています。それで私はハイチやルクセンブルクを数に入れていませんが、それでも24カ国ですから15%近くになります。国連非加盟国のニウエ等も軍隊がありません。

第2に、軍隊のない国家が増えてきました。

アンドラが700年、サンマリノが500年、モナコが300年、リヒテンシュタインが150年、アイスランドが100年の歴史を持ちますが、その他の国はたいていが20世紀後半に軍隊のない国家になりました。

コスタリカが70年、キリバスは40年、パナマは30年の歴史になります。長い間、数カ国だったのが、今では20カ国を超えました。

第3に、歴史、外交政策、教育、市民社会のあり方が重要です。

軍隊がないので国家予算を他に振り向けることが出来ます。周辺諸国との間で紛争予防と紛争解決のシステムを構築し、対話による安全保障を実現しなければなりません。平和教育、平和の文化の醸成が重要となります。

第4に、冒頭で掲げた関心事項である憲法第9条の「影響」についてもう一度考えてみます。

なぜ、憲法第9条は世界の非武装憲法に影響しなかったのか。

なぜ、憲法第9条は軍隊のない国家に影響を与えなかったのか。

軍隊のない国家だけではありません。例えば憲法に平和への権利を掲げている国があります。ブルンジ憲法には平和的生存権が書いてあります。ケニア憲法やコートジボアール憲法には平和への権利が書いてあります。しかし憲法第9条が影響を与えた訳ではありません。

なぜ、憲法第9条は世界に影響を与えなかったのか。

答えは簡単明瞭です。隠してきたからです。守らなかったからです。

それどころか自衛隊を設置し、強化し、周辺諸国を恫喝してきました。いまや「敵基地攻撃論」です。おまけに日米安保条約に基づいて米軍が駐留しています。朝鮮戦争やヴェトナム戦争では米軍が日本から飛び立って空爆を続けました。このことについて日本は一度も反省していません。

かつての侵略や植民地支配について反省も謝罪もしていません。日本国憲法の平和主義を唱えながら、朝鮮戦争やヴェトナム戦争の特需でお金儲けをしました。反省するどころではありません。外から見れば、日本政府ほど無責任で二枚舌の政府はないでしょう。

日本国民は憲法第9条を大事なものと考え、平和運動を展開してきました。私たちは憲法前文の平和的生存権と第9条の戦争法規・軍隊不保持を掲げて、日米安保に反対し、自衛隊権限強化に反対してきました。憲法第9条に加えて、広島・長崎原爆に対する反核運動も含めて、日本の平和運動は懸命に努力を続けてきました。

しかし、総体としてみれば、私たちの平和運動は一歩後退、二歩後退、三歩後退とひたすら後退を続けてきました。米軍基地と自衛隊基地を沖縄に押し付けてきました。止めることができませんでした。世界有数の軍事費と軍事力を保有し、在日米軍とともにアジア諸国に脅威を与え続け、戦争という名の一方的殺戮を続けてきました。朝鮮半島やヴェトナムにとどまらず、アフガニスタンやイラクにまで戦争の惨禍を押し付けてきました。平和運動は、その反省をしてきたでしょうか。

一部では「憲法第9条を世界に」というスローガンを掲げ、アジアの平和運動と連帯する試みを続けてきました。しかし憲法第9条は世界に影響を与えてこなかったのです。

本来なら、日本国首相が国連総会の度に「わが国には憲法第9条があります。みなさんも憲法第9条をつくりませんか」と宣伝しなければならなかったはずです。サミット、G7においても「憲法第9条はいらんかね~」と普及しなければならなかったのです。日本政府はそれどころか、憲法第9条をいかにして骨抜きにするかしか考えてきませんでした。

ヒロシマ・ナガサキの訴えにもかかわらず、核兵器禁止条約を敵視する姿勢を隠そうともしません。日本政府は都合の良い時だけヒロシマ・ナガサキを利用します。

こうした現実を変えるために、平和運動は何をして来たでしょうか。私たちの限界は数え始めるときりがありません。

 

軍隊のない地域――ピースゾーンの思想

 

国家のレベルだけではありません。

地域で軍事的なものを排除し、軍隊のない地域をつくるピースゾーンの運動が世界にあります。日本でも試みましたが、残念ながら日本の平和運動はピースゾーン運動に十分な関心を持ちませんでした。

1970~80年代、無防備地域宣言の提唱がなされました。2000年代、ジュネーヴ諸条約の無防備地域宣言の規定に従って、日本でも無防備地域宣言都市をつくろうという運動が始まりました。

大阪市、枚方市、箕面市、京都市、向日市、高槻市、奈良市など各地で取り組みがなされました。首都圏では市川市、国立市、日野市、横浜市、荒川区、港区、目黒区なども続きました。さらに札幌市や那覇市も続きました。

各地で条例制定住民署名運動が展開され、必要な署名が集まりました。その意味で、市民の平和への願いは何度も確認されました。しかし各自治体の議会はすべて条例制定を否決したのです。条例制定に前向きの姿勢を示した首長は、国立市と箕面市の2人だけでした。他はすべて首長も議会も無防備宣言に反対しました。軍隊のない地域を作ることへの反対は驚くべき強烈さでした。

世界における軍隊のない地域の発想は、例えばフィンランドのオーランド諸島が有名です。フィンランド領ですが、フィンランド軍が立ち入ることが出来ない地域です。独自の強力な自治権を認められていて、オーランド諸島政府は、国連人権機関にやってきて平和セミナーを開き、北欧諸国の中で平和政策を提言し続けています。

オーランド諸島は平和なピースゾーン(軍隊のない地域)ですが、世界の紛争地でもピースゾーンの試みが繰り返されてきました。2008年にオーランド諸島に行ってきました。前田『旅する平和学』(彩流社)で紹介したように、政府系の平和研究所がさまざまのレポートや論文を送り出しています。

フィリピンの地域紛争では、2000年代にピース・サンクチュアリ運動が展開されました。村人たちが、政府軍にも反乱軍にも協力しないと宣言し、軍隊が村に来ないように訴えました。どちらか一方に協力すれば、反対勢力から攻撃されるかもしれません。各地の村人たちが、どちらにも協力しない、私たちは平和に生きたいと意思表明をしました。

コロンビア内戦の時にも同じことが起きました。1990年代から、サンホセ・デ・アパルタードのピース・コミュニティ宣言が大きく報道されました。教会の神父が中心となって住民自治を獲得し、戦争協力を拒否する運動でした。

2003年に本格化したイラク戦争でも、内戦やテロが頻発する中で武装勢力やテロ組織には協力しない、私たちは平和に生きる市民であると言うイラク市民レジスタンスの運動が展開されました。

翻って見れば、沖縄「命ど宝」の思想はまさに平和に生きる権利の具体的な実践です。ピースゾーンの思想の先取りです。沖縄戦では、軍民分離原則を無視して、軍民混在を作り出しました。

戦争では軍隊は軍隊を攻撃します。国際法では軍事目標主義と呼びます。速やかに敵軍を破壊して、有利な状態で停戦に持ち込むのがいわば正しい戦争政策=終戦工作です。民間人を攻撃している暇はありません。無駄弾を撃ってはいけません。軍事目標主義ですから、民間人攻撃は禁止です。学校、病院、宗教施設の攻撃も禁止です。

ところが日本軍は民間人を攻撃します。そして自分たちは民間人を連れ歩きました。人間の盾です。軍隊は自分が生き延びるために民間人を利用します。このため沖縄戦では膨大な民間人が犠牲になりました。軍隊と一緒にいると攻撃されるのは当然です。人間の盾は、現在でも世界で時々採用される悪質な作戦です。

民間人を犠牲にしないためには、軍民分離原則に従う必要があります。軍隊と一緒にいてはいけません。それゆえ無防備地域を作る必要があるのです。

無防備地域宣言運動は各地で熱心に取り組まれたにもかかわらず、日本では受け入れられませんでした。日本の平和運動は憲法第9条の輝きを口にしますが、軍隊のない国家をつくる気概も構想力も示すことがありません。軍隊のない地域をつくる無防備地域宣言も受け入れませんでした。何のための憲法第9条なのでしょうか。私たちは憲法第9条の遺産を食い潰すだけなのでしょうか。

2016年に国連平和への権利宣言が出来ました。途中段階の草案には「ピースゾーンをつくる権利」を私が書き込んだのですが、残念ながら、国連総会で採択された宣言からは削除されてしまいました。憲法前文に平和的生存権を掲げているのですから、平和への権利を世界に広げる仕事を日本からも情報発信していく必要があります。私たち、平和への権利国際キャンペーン日本実行委員会編『いまこそ知りたい平和への権利48のQ&A――戦争のない世界・人間の安全保障を実現するために』(合同出版)を参照願います。

 

人民には戦う理由がない

 

憲法第9条は、戦争放棄、軍隊不保持、交戦権否認を掲げています。これは戦争はしない、戦争のために必要なものは持たない、という明確な「否定」の表明です。「消極的平和主義」です。戦争には消極的で、それによって平和主義を担保します。

それでは「積極的平和主義」は何か。それは日本国憲法前文の平和的生存権と国際協調主義です。平和を作り出すために積極的に政策を展開します。

日本国憲法の平和主義は消極的平和主義と積極的平和主義を両輪としているのです。このことが従来、理解されずに来ました。それどころか安倍晋三首相は戦争するために「積極的平和主義」を持ち出したのです。戦争遂行のための口実にしたのです。意味が逆転してしまいました。

こうした議論に際して必ず登場するのが、「平和主義の理念は良いが、現実的ではない。歴史を見れば人類に戦争はつきものであり、軍隊が不可欠である」という主張です。これを現実主義と称しています。

これは単なる嘘です。現実主義どころか、妄想に過ぎません。

人類史を見れば、人民の日常は戦争と無縁です。そもそも人民には戦う理由がありません。個人のレベルでは強盗に襲われたら、守る必要があるでしょう。しかし武装勢力の必要はありませんし、常備軍の必要性もありません。人類が常備軍を保有するようになったのは近代のフランス革命以後の事です。

歴史を見れば人類に戦争は稀有の事態です。戦争がつきものと言う根拠は、年表を作ってみれば、多くの時代に戦争が起きていたという事実だけです。これはとんでもない誤認です。子細に見れば、戦争のあった年よりも戦争のなかった年の方が明らかに多いです。仮に、ある年にある地域で戦争が起きていたとしても、その戦争にかかわったのは、ほんの一部の地域であり、ほんの一部の人々に過ぎません。世界の大半はその戦争と無関係です。圧倒的多数の人々は戦争が起きたなどと知らずに暮らしていたのです。人生の中で戦争に遭遇した人間は少数派です。

それが多数になったのは第一次大戦や第二次大戦のような世界的な総力戦が起きて以後の事です。

「人類史に戦争はつきものだ」というのは間違いです。戦争の概念――常備軍というのは近代の国民国家になってつくられた。それ以前、常備軍は少なくとも西欧世界には存在しません。その意味では戦争の概念や軍隊の概念が違うということがあります。

もちろん古代ギリシャ、ローマ、あるいは古代中国の時代に戦争をやっています。長期に及ぶ戦争もありました。それぞれの国が戦争を継続したことは間違いありません。その時代に「戦争があった」「戦争があった」と年表で書くと、ずっとあったとか、常にあったと誤解してしまうのです。しかしこの年に戦争があったという年表をつくっているということは、それ以外の年に戦争はないからです。

例えば1467~78年に応仁の乱がおきました。11年間も続いた大戦争です。それが日本史の年表に書かれると、大変な戦争が続いたという印象だけが残ります。しかし応仁の乱の11年を除くと戦争は起きていません。しかも日本全国で起きた訳ではありません。主に京都を舞台に東軍と西軍の戦いがあり、大規模な長期に及ぶ戦争になりました。それは比較の話に過ぎません。他の戦争よりも長く、大規模と言う比較に過ぎません。端的に見れば、日本の多くの地域では戦争は起きていません。戦争など知らずにいた民衆が多かったのです。

1853~56年にクリミアで戦争があったことが、わざわざ世界史に特筆されて年表に載っているのは、クリミア以外では戦争はなかったからです。あたかもいつも戦争があったかのように誤解したがるわけです。地球儀を回してみれば、いつもどこでも戦争があったわけではなくて、特定の地域、特定の年代に、ここでは戦争があった、だから人類史に戦争がつきものだと言える、そういう意味なんです。その間の省略された行を見れば、何行も何十行も省略されています。そこに戦争はなかったことがわかるのです。

人類史に戦争はつきものですが、いつの時代にも、どこにでもあったわけではありません。戦争なんて見たことも聞いたこともないまま人生を終えた人間のほうが圧倒的に多いのです。それが一般社会の通念なんです。

人類史において、多くの人々は戦争に巻き込まれることはなく、軍隊に徴兵されることもなく、殺すことを強制されることもなく、戦争で殺されることもなかったのです。殺すことも殺されることもない権利が実現していた時代、実現していた場所がたくさんあったのです。人民には戦う理由がないからです。

逆に言うと、近代国民国家が常備軍を創設すると、つくられたナショナリズムと、つくられたミリタリズムによって、国家が軍隊で守ってくれる、国家は戦争をするものであるという意識が形成されたのです。

それも幻想にすぎません。なぜなら軍隊は国民を守らないのです。軍隊が守るのは国家であって、そのために国民を犠牲にします。軍隊は国民を殺すのです。死なせるのです。国民を死なせて国家を守ることこそが軍隊の使命です。

しかも、それで財産的利益を得るのが資本主義です。軍隊を維持し、兵器を生産・販売・使用して、敵国民だけでなく自国民も殺すことによって、軍需産業が肥大化するのです。

軍需産業を発展させるために、現代国家は戦争を必要とすることはロシア・ウクライナ戦争を見れば直ちにわかります。ロシアもウクライナも、一日でも長く戦争を継続することを最大目的としているとしか言いようがないのは、ある種、自明のことなのです。この1年半で膨大な収益を上げ、信じられない利潤を獲得し、世界中の軍需産業がぼろ儲けしました。ロシアとウクライナの若者に死んでもらうことで権力者の地位が安泰となり、軍需産業が利益を手にする。メディアもぼろ儲けです。政治家と資本家は舞い上がっている訳です。これが現代の戦争です。

 

権利としての平和――平和に生きる権利

 

殺すことも殺されることもない権利というのは、改めて言うまでもなく、それが当たり前だったということです。にもかかわらず現在、軍隊の存在を当たり前とし、徴兵制によって国民に殺させる訓練をするのが当たり前の国があります。徴兵制がなくても軍隊が国民を守ると言う幻想を振りまいています。

これはナショナリズムが当たり前になった近代国民国家です。そしてミリタリズムがつくられる。一旦でき上がったミリタリズムが、軍需産業と軍事科学技術によって支えられて肥大化していく。兵器の近代化は大規模化をもたらし、ついには核兵器になりました。その時代に私たちは生きているのです。

ですから軍需産業問題と軍事科学問題を射程に入れないと戦争と平和に関する議論ができないんです。単に憲法第9条だけの問題ではない。憲法第9条は重要なんですが、併せてここを見ておかないといけない。

そのための議論をきちんとしておかないといけないので、改めて、権利としての平和、平和に生きる権利を私たちはどう紡いでいくのかを考えたいのです。

平和を戦争のない状態や、構造的暴力のない状態としてみると同時に、権利としての平和を考える。常備軍の存在しなかった人類の歴史を振り返り、戦争のない状態が当たり前だった人類史を想起する。

現在、軍隊のない国家がどのように存在し、どのような文化政策や教育政策をとり、どのような外交政策をとっているか。そこから議論を始めたいと思います。

予定の時間をオーバーしましたので、以上で私の話を終わりにさせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。

<完>