研究学園都市つくばの目覚ましい発展は多くの先人たちの献身と貢献の上に築かれてきました。
連続3期、谷田部町長として尽力された故横田栄一氏は 近代谷田部の基礎を築くために自身の健康を顧みず働き抜き、昭和52年(1977年)59歳で急逝されました。
街の人々と共に生き抜いた人間の姿を残したいと願う人々により彫像制作の依頼を受けた小張隆男によって横田栄一像は完成し、「元谷田部町顕彰碑園 未来の憩いの場」に2023年11月10日建立されました。
右から
横田美農夫氏
鋳造家 田添氏
彫刻家 小張隆男
台座制作 加藤幸彦
塚田則夫氏
愛国心と郷土愛にあふれた横田栄一の生涯
茨城県筑波郡谷田部町(つくば市)町長であった横田栄一氏は、町長在職中(一九六九~一九七七)に逝去された。同氏は筑波郡島名村水堀(つくば市)の県会議員で島名村長の横田内蔵之丞氏の長男。
横口家は「水堀の陣代」と呼ばれ、守護大名小田氏に仕えた有力土豪で、その後に帰農した。横口家の家訓として地域発展への情熱は代々受け継がれ、内蔵蔵之丞氏や栄一氏の父子の業績にもその傾向が見て取れる。
栄一氏は旧・水海道中学(水海道一高)卒業後、満州開発に従事した。昭和二一年に帰国すると、敗戦後の郷土復興を目指し、昭和二八年には島名村長に就任すると、谷田部町との合併を昭和三〇年に実現した。
昭和四四年に谷田部町長に選出され、東西谷田川圃場整備、教育施設整備、町内五小学校の校舎改築、体育館プールの完備、常磐高速道の建設促進、県道・谷田部野田線の「谷田部バイパス」の完成に尽力した。また一三ヘクタールに及ぶ公共用地を確保し、新庁合建設や圏民センターを誘致し、さらに昭和四七年、研究学園都市関係六ケ町村で設立した筑南地方広域行政事務組合管理者として、広域消防の開設やゴミ処理場・広域老人福祉センター紫峰荘の建設を実現した。
そして研究学園都市建設に必要な用地買収の推進に苦慮しつつ、農民の塊を理解する一人として、調和に満ちた田園都市実現を目指した。
「政治は和である、何事にも情熱を傾け、体でぶつかり解決して行くのだ。」と説き、その温厚な人柄と卓越した政治手腕は、皆の認める所とされている。
誡に栄一氏は、郷土愛と愛国心に溢れた熱血の人物であった。
撰文 飯野道郎