妙印尼像完成

つくば市谷田部の「医王寺」の奥の間から、古い尼姿の木像が見つかりました。 地域情報誌プレステン社長の飯野道郎氏が発見したのです。
私たちはこの像が、
稀代の女傑と評される「妙印尼」であると確信しました。

制作依頼を受けて、小張隆男がかねてより制作中であった妙印尼像が完成しました。


この像は、制作依頼者であって、妙印尼の血脈を受け継ぐ桜井よう子氏のご自宅に置かれています。

http://www.myouinniteruko.com/

 

目元と唇に施された朱が、女性であることを明らかにしており、横に置かれている厨子の家紋が傍証しています。医王寺は、天正年中(1588-1591)由良氏が牛久に居住した時、妙印尼が討死した将士を供養するために近傍数里の間に 七観音八薬師の堂宇を建立したもののひとつです。

像は古く、傷みが厳しくなっているため、ブロンズ像として再建したいとの櫻井姚さんのお考えで、小張隆男は、現在鋭意原型制作中です。

妙印尼とは?

1584年当主不在の金山城を攻める北条氏に対抗し、71歳の妙印尼は、甲胃を纏い家臣をまとめて籠城戦を指揮し、善戦して和睦。金山城を失うも息子達を奪還し、桐生に移って由良家を守り抜いたのです。6年後の小田原征伐では、国繁が北条方の小田原城に篭城する一方、嫡孫を後見して豊臣方へ参陣。親子が敵味方に別れて参戦するという、妙印尼の迅速な決断と行動が家名存続を可能にし、大役を果たしました。
由良家は、戦後その功により秀吉から常陸牛久5400石を与えられ、牛久城主に就任。晩年は、討ち死にした将士を敵味方関係なく弔うため七観音八薬師を街内に建立し、街主変更で起きる民心不安を解消させました。
81歳没。茨城県牛久市の得月院に葬られています。法名得月院殿月海妙印大姉。

櫻井さんは、新田義貞から由良氏妙印尼へと続いた血筋を引いておられます。
関東産業の事業代表者として立派な業績を上げるにとどまらず、地域婦人連絡会茨城県代表として、商工会長として、 福祉活動にも貢献してこられました。
昨年秋、女性団体の全国組織、全国地域婦人団体連絡協議会の会長にも抜擢され、利他の精神で日々忙しく任務に励んでおられます。
女傑の誉れ高い「妙印尼の遺伝子を受け継いだ事が、今日の自分を作っているとの想いが、この像の再建へとつながったのではないか」と、桜井氏は、完成に近づいた粘土原型を見ながら、感慨深く語っておられます。

老朽化により昭和56年(1981)に再建された薬師堂の以前の姿。文政年間(1820年頃)の假造りといわれる。

つくば市谷田部の現在の医王寺「谷田部薬師」。
旧暦4月4日の花祭りでは露店・植木市がならび賑わいを見せる。